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主一人3
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みたり・きいたり 『主一人』   平成18年版です  



 83歳 3人だけの同窓会をしました。

   7月22日富山市水橋で小学校での仲良し3人組が集まって同窓会をしました。
   Sちゃん(女性)を挟んでH君と私Kです。今まで何回かの同窓会では顔を合わせてはいるのですが、
   ゆっくり話す機会も無かったので、昨年H君が奥さんを亡くされ、互いにバツイチになったことから 気楽に出会うことを企画したのです。

   いわばSちゃんを頂点としてH君とKを底辺にした三角関係とも言うべきでしょうか



クリックすると写真が沢山出てきます

   これを機会に70年ぶりに水橋の町を歩きました。
   小学校・お宮さん・母の務めていた郵便局跡・よく泳ぎに行った海岸など

   そしてこの日は水橋伝統の「橋まつり」がありました。
   写真をいっぱい撮りました。あわせてご覧下さい。

この写真をクリックしていただくといっぱい写真が出てきます


   このあとすみちゃんと若狭方面へドライブしました。



 「京都新聞」に私の記事が

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   去る6月7日付けで大写しの顔写真と共に載りました。
   おこがましくも「着こなし名人」のコーナーです。

   数日前に取材は受けたのでどのような内容で記事になるのかは興味はありましたが
   顔写真がこのように大写しに載るとは私も驚きでした。

   これを見られたネット仲間の龍の子太郎さんから早速朝一に
   「西日本」コーナーに紹介され嬉しかったです。
   が少し照れました。

   お陰様で沢山のメールを頂きました。また地域では会う人ごとに
   「見たよ 元気でよかったね」と言われたり電話を貰ったりしました。

   そして昨日小学校へ行ったら校長さんから、
   これをコピーして全部の先生方やPTAの方々に配ったことを知らされました。

   小学校では私が主宰している学校安全ボランティアの形の不審者の侵入を防ぐため
   校門で見張りを一昨年から続けている関係で皆さん顔なじみなのですが、
   より親しみを込めた目で見られるようになりました。

   嬉しいです。

   ループピアスは泰子さん(亡妻の愛称)の居るときから着けて居たのですが
   ペンダントは彼女が亡くなってからその遺骨を容れて46時中首からです。

   「いつも監視つきだから浮気もできない」は事実ですが、
   手を繋いだりのお友達つきあいは、「ママも許してくれるよ」と娘も公認。
   いわゆるプラトニックラブと言う形で数名の方々とお友達になっています。

   久し振りに泰子さんも話題になって嬉しそうに微笑んでいます。







  お花畑に誘われました。

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   先日、女子大児童学部で音楽を指導されている女性教授の主催されているゼミ生のコンパに誘われました。

   これは私が日頃関わっている児童館活動に協力して貰っている皆さんです。
   その縁で私が誘われたという。

   4回生ばかり ぴちぴちのお嬢さんの中に入ったのですからまるでお花畑のようでした。
   その彼女たちにも悩みがあるようです。進路問題です。でも皆さん至極明るい。
   私の恋物語を少ししたら身を乗り出して聞いてくれました。

   この行き帰りとも、片手不自由な私を児童館職員モコモコちゃんが介添えしてくれたので助かりました。





   今度は上腕骨折しました

   3月29日 児童館を終了する記念のお別れ遠足に同行したのです。
   大阪の海遊館内を子ども達と一緒に行動してる昼時です。
   最後尾をサポートしながら歩いているときその最後尾の子どもが遅れたものだから
   みんなに追いつこうと走り出したので私も一緒に小走りしました。

   その時です。転倒したのです。
   左手にカメラを抱えていたので庇って左肩を床にぶっつけて支えました。
   その時は勿論激痛がありましたが何とかこらえて、館内を撮って歩きました

   夕方5時頃帰ってから直ちに日赤へいって 検査をうけたところ上腕骨折していました。
   当分自然治癒の方法で回復を待つことになりました。

   4月12日再検査を受けた結果順調だと言うことですが。まだ痛いです。
   幸い左手の負傷なのでパソコン操作には支障ないのですがハンドルが持てません。
   こ復帰には3月近く掛かるようです。なんとその間デート出来ないのです。

   今の行動範囲は歩ける所だけです。

   5月12日診察を受けました。経過は順調のようです。
   だいぶ腕が上がるようになりました。今後は自分でリハビリをやって腕が上がるようにするのです。
   次回の検診は6月29日です。骨の成形を待つようです。その時が完治と言うことなんでしょうね。
   それまではハンドルを持ってはいけないのです。辛抱です。

   骨折の治療というのは骨が自然に形成されるのを待つしかないのだと初めて知りました。
   そしてその間、筋肉が萎縮しないように自らで鍛えなければいけないということも。
   人間は生きている限り、損傷した細胞は必ず再生するのです。めげずに待ちたいと思います。



  初めて入院を経験しました。

   1月5日肺炎のため緊急に入院しました。

   今まで60年あまり入院どころかお医者さんにさえかかったことがないのに 急に入院が宣告されたのです。
   何が何ともわからないままに娘が全てを段取りしてくれて ベッドに横になり寝たきりの生活が始まりました。

   意識はあるつもりなのですが、横になったら直ぐすぐウトウト経過を良く覚えてないのです。
   でも6時間毎の点滴・3度の食事や食後の薬は全てナースにお任せしてたのは知ってます。
   私の体自分で動かそうとしても思うようにならないのでこれも一々ブザーを押してナースを呼びます。

   また身の回りの品や着替えなどは娘が毎日届けてくれるます。というように自分では何も出来ないししなくても良いのです。
   これが入院暮らしということなのですね・・・
   新品のパジャマを数枚とガウンを用意してくれました。
   どうせベッドの上だから何でもいいのにと思っていたのですが、これもおしゃれ着なんです。

   入院10日ぐらい経過した頃からベッドが退屈になってきました。
   点滴の効果から治りかけのようです。

   歩けるようになったときそれを着てサロン(食堂)へ出かけ早速女性の患者さんとお友達になりました。
   それから毎日サロンへ出かけていろんな患者さんとお話しました。

   中には肺ガンを再発された方や、肺に水が溜まってる方、肺だけではなく胃や腸、腎臓などのガンの治療を受けられた方、
   それらの再発を懸念しての検査入院されている方、またまだ50代なのに呼吸器系統のガン治療のため頸椎から腹部までの手術跡を見せて貰いました。
   治療としては終わっていなくてその後何度も入院を繰り返されていると言う。

   私自身にとって入院とは大変なことだと考えていたのです。
   なのにこれを普通の事として繰り返してしておられる方々の実態を見て驚くと同時に大変な事実を知って心が痛みました。

   一方2週間も入院してパソコンに触っていないのでものすごくストレスが溜まってきました。
   そのころ血液検査の結果退院の診断が出たのです。飛び上がるほどうれしかった、
   入院した当時、もうパソコンに触れないのかと思って程滅入っていたからです。
   そして1月18日退院しました。


   1月18日退院後は娘宅に強制?同居することになり、
   パソコンを操作するために毎日朝10時〜夕5時頃に自宅に通勤?することにしました。

   この娘宅での同居、入院する前の独居当時にやっていた掃除洗濯自炊これらの一切を何もしなくてもいいのです。
   時間になったら「食事が出来たよ〜どうぞ」「いただきます」 準備も後片付けも何もしないのです。
   お風呂から出たときや朝ベッドから起きたときなど、着替えが一切揃えてあります。
   自分で用意しないのです。まるで何様とも思えるような扱い これでは全くの甘やかされというか過保護ですよね。

   「これくらいのことは自分でやるよ」 と言うのですが聞いてくれません。
   どうなってるのでしょうね と言うかこのままでいいのかしら  です。

   そして退院一週間後の今日(1月24日)再診の結果、全く傷も影もなく完治していることを知らされました。
   病名は肺炎球菌肺炎と言うことで相当重い診断だったのです。それも全て治りました。

   寒いので当分は自粛しますが暖かくなれば元通りの パソコン・ドライブ・おしゃれを愉しむことが出来ます。

   Fenix(不死鳥)のように甦りたい・・・



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