主一人へ戻ります   17-6-30 更新 初恋物語
みたり・きいたり 『主一人』  5   

次をそれぞれクリックして頂くと各内容をご覧頂けます。 

すみちゃんのこと 小学校の同窓会 彼女が京都へ 私が・・・ 同窓会の帰途 彼女が再度
ロングドライブ@ ロングドライブA ロングドライブB ロングドライブC
秀子さんのこと 軍国少年の恋 消息が・・・ 60年目の再会






 初 恋 物 語 


そして今・・・

  



    



    プラトニックラブ T


  ロングドライブ  D   18-7-23〜7-26 

    今年は山陰若狭方面です

    7月22日83歳3名だけの同窓会をしたあと、澄ちゃんを伴ってドライブしました。

    天橋立をゆっくり観光しました。
    有名な 股のぞき です。股から覗いた景色も見えました。

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    今年の全行程は1150`。無事に帰宅。
    すみちゃんは28日京都駅から見送りました。







    小学校の同窓会 

    40数年ぶりに同窓会の案内をもらった。
    ○○○尋常小学校昭和10年卒業同窓生

    真っ先に思い浮かべたのは、小学校1・2年生の頃、いつも鬼ごっこしたり、
    追っかけっこしたり、一緒に遊んだ色白で小柄なおかっぱ頭の可愛い女の子「すみちゃん」でした。

    3年生からは男女別教室なので学校では遊べなかったけれど、家が近いから
    よく遊んだ。私はほかの誰よりも彼女が好きだったから。
    勿論、当時は恋なんて意識はない。好きだって女の子って感じ。
    あとになってこれを初恋と位置づけた。だけど片思いだったみたい。

    小学校を卒業してからは、音信不通。彼女は出席するのだろうか。

    集まった同級生、みんなそれ相当のおじさんやおばさんになっていた。
    そのなかにあって品の良いレディタイプ、すみちゃんだ。
    彼女は都会(東京)暮らししている。と
    「すみちゃんでしょう」
    「内田さんね」 お互いすぐわかった。
    もっとドラマチックな台詞言えなかったものか、後悔。

    おしゃべりは、どうしても男性女性それぞれのグループで弾む。
    まじり合うことはない。すみちゃんと話す機会が無いのがもどかしい。
    ところが、宴会の席は籤にもかかわらず彼女と並ぶことが出来た。神に感謝。

    今日の同窓会の世話役してくれた親友のよっちゃん、わたしの気持ちを薄々知っている。
    「隣同士で座れて良かったな 彼女相変わらず美人だし」
    「うん」
    実は彼、すみちゃんとは、親同士が決めた許嫁だった。結ばれなかったけれど今でも関心は充分ある。
    心の奥では彼と私、張り合っていたようだ。

    その後何回かの同窓会で会うたびに、話のリズムが不思議と一致した。
    彼女も私に親しみを見せ始めた。

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      彼女が京都へ来た

    「お友達が関西へ旅行するって言うの、私同行するけど別行動で京都へ行ってもいいかしら」
    「いいよ  一泊するつもりでね」 うっかり言葉にした。
    「多分そうすると思うわ」 素直な返事にほっとした。

    10年前のこと。彼女が京都へ来ると言う。
    正直あわてた。彼女には夫がいる。私にも寝たっきりの妻がいる。
    こんなおつき合いしてもよいのだろうか?

    私は、結婚して近所に住んでいる娘に、今まで何でも話し合い相談してきた。
    すみちゃんのことも。その彼女が京都に来ると言う。娘はなんと思うのだろう。
    「ママの介護の息抜きに、ちょっとくらい楽しんだっていいんじゃない 
         一泊するんだったら ビジネスホテルへ案内したら」
    実にクールな返事。

    お決まりの京都見物を一通り、中でも雨上がりの大原・三千院 は風情があった。

    庭園を歩きながら、いつしか腕を組み手を握り合っていた。
    「よっちゃんね、手を握りに来たことあるのよ。内田さんとは初めてね」
    初恋が、想い出だけではなく実ったって感じ。ゲット。
    翌日、ビジネスホテルに泊まった彼女を、我が家に案内する。妻は入院している。

    家では、娘が3月前に産まれた赤ん坊を抱いて待っていてくれた。
    彼女は私の初孫を、愛おしそうにしっかり抱いてくれた。

    それから数年後に彼女の夫が他界され、その数年後、私の妻も他界した。
    寝たっきりだった妻の介護については、 「主夫してます」  で紹介してます。


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     私が彼女を訪問した。

    平成11年10月、私がすみちゃんを訪問した。
    このころはお互いに好きだと言う感情は定着している。

    京都から700キロの関東、明るいうち着く予定だったのに、案の定道に迷って夜になった。
    ここで辿り着けなかったら一生会えない、と悲壮な思いだった。

    ところが近所に住む彼女の息子さんから携帯に連絡が入った。迎えに行くという。助かった。
    考えてみれば、母親が好きになった人の訪問を受け入れ、ご馳走を作って歓迎してくれる。
    なんて素直な息子さんだろうと思った。感謝。嬉しかった。

    余談ですが、先日NHKの「ちゅらさん」のドラマで、
    アパートの管理人さんの女性と、その住人の男性(ともに70歳台?)が好き会った同士として交際している。
    そこえ登場した男性の息子が
    「いい年してて今さら女を好きになるなんて」
    さも軽蔑するような台詞。ホローがあるのかと思ったらそれで切り捨て。
    作者の感覚に疑問を持つと同時に、それが世間の常識なのかと思うと寂しかった。

    その後のドラマの進展では、
    その男性が息子に自分の全財産を渡して、身一つで女性のところへ転がり込んできた。
    女性は大歓迎して受け入れている。周囲も拍手していた。
    いかに女性に生活力があるからと言って、分別をわきまえた男性が女性に身を寄せる? 無責任な話です。
    私はそんな関係を軽蔑します。

    その晩は彼女の家で一泊。翌日から陸奥花巻温泉までドライブです。

    花巻温泉のホテルでは同室です。彼女は一瞬ひるんだようでした。
    その晩、二人はそれぞれの思いを率直に話し合いました。

    男と女 幾つになっても互いに恋し合うこといいことだと思う。
    そして、恋の究極は体の結びつきがあってこそ達せられる、という見方もある。
    それもいい。しかし、体の結び合いがあるからにはどんなことがあっても、
    互いに責任を持たなければいけない。それなくしての行動ならば動物と同じだと思う。

    私達は小学校の幼馴染みが縁で今互い好きになった。またそれぞれ伴侶をなくした。
    物理的には結婚も出来る。がお互いはそのつもりは ない。
    また彼女の息子さんや私の娘は、私達の関係をピユアにとらえて理解し信頼してくれている。
    これを裏切ることはできない。

    だから私達は、心の結びつきだけで満足しよう。
    その方が長続きすることになるから。いわゆるプラトニックラブです。

    彼女はベッドに入ってからしばらくは寝付けなったようです。
    でも私が先にに寝入ったのを感じてぐっすり眠れた。と翌朝
    「内田さんって、想像していた通りの人だった」
    「そうかなー だって 大好きなすみちゃんを失いたくないもん」

    すがすがしい朝をむかえました。
    帰り道に中尊寺を訪ねたときは、京都三千院の時と同じく なぜか雨でした。

    考えてみれば女性と二人っきりで遠乗りなんて初めてです。

    妻が健在の頃はよく遠乗りしてました。でも二人っきりではないんです。
    一人娘を留守番させられなくっていつもうしろの席にいます。いわゆるお邪魔虫。
    それが高校を卒業した。もう留守番させられる。これからは二人だけのドライブを、
    と楽しみにしていた矢先に、妻は脳出血で倒れそれっきり寝たきり状態に。
    その妻も亡くなり、今はペンダントの中に収まっています。

    正直、私の心境は複雑です。
    愛していた妻が、記憶喪失、寝たきり、再起不能、そして亡くなった。
    なのにもう他の女性を愛している。 
    「ママは認めてくれるよ 割り切っっていいんじゃない?」
    娘は言ってくれるんですが。心に引っかかるのも事実です。



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      同窓会での帰り道

    平成12年10月21日同窓会が開催される。
    すみちゃんも参加するという。勿論私も参加した。
    往きは息子さんに送ってもらうと、では私が帰りを送ることにして……。

    同窓会の参加は少し減ったようだ。宴会の席は抽選で決めるのに隣り合った。偶然とは言えいつもなので不思議だ。
    隠し芸が出る。カラオケも出る。私も一曲。宴会の後は一室に集まってお喋り。これも楽しい一時だ。

    翌朝、すみちゃんの列車の時間があるから、そして私は駅まで送るんだ、ということにして・・・
    私とすみちゃんは皆と別れて一足先にホテルを出発。
    見送ってくれる皆の前では、すみちゃんを車の客席に乗せて、途中で助手席に誘導した。誤解を招かないために。

    そのまま北陸自動車道を東へ、途中名所”親不知”の海岸で休憩。直江津から南下一路軽井沢へ。
    軽井沢ではきゅうに冷え込んできたのか霧の中のドライブになった。危険だけどロマンチックな雰囲気を味わう。

    軽井沢のヒュッテという言葉にあこがれて、インターネットで予約しておいたが少々貧弱で期待はずれだった。
    でも料理は一流。納得した。

    2日目、東京に午後2時に着いた。このまますみちゃんの家まであと2時間。名残惜しい。東京でもう一泊を決めた。
    予約なしでホテルを探すのは大変なんだ。3つ満員を理由に断られ、4つ目で丸の内ホテルでようやく一室獲得。
    ここ丸の内ホテルは、創業75年立て替えのため今年11月までの営業という。さいごのチャンスだったのだ。

    その晩は出歩くのをやめて、雨の東京の夜景を窓から見下ろしながら初めて口づけを交わした。
    昨年に続いて今年も二人でドライブできた。年に1回それでもいい。これが離れているもの同士のプラトニックラブ。

    翌日、東京を一週して彼女の住む茨城県へ、そこで一服して一人で京都までの帰途についた。
    帰りは東名高速ではなく1号線を走った。箱根の難所。東海の海岸線。
    素晴らしい景色や人情をゆっくり味会うことが出来た。

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   彼女が再び京都を訪問



    平成13年5月18日すみちゃんが再び京都を訪れた。

    彼女の小学校の恩師(女性93才)が滋賀県守山に住んでいる。電話でやりとりしているうちにぜひ会いたいとおっしゃる。
    守山なら京都から近い、私が案内するからを口実に、周囲にはその理由で実現した。本音は私達が会いたいから

    先生はお元気だった。非常に喜んでいただいた。
    私達の関係を聞かれたので「初恋同士」なんです、の答えに祝福して頂いた。
    その晩、大津市に住む私の兄夫婦と会食した

    今回の彼女の来訪は、割り切って恋人同士(と言ってもいいよね)としての再会です。
    私の家に泊めました。娘は前もってお布団の段取りなど世話をしてくれました。
    夕食は私の得意料理の一つ、肉じゃがとピクルス(茄子・胡瓜・玉葱・トマトをスライスして塩漬け即席です)で、もてなしました。

    21日から2泊3日、山陰方面へドライブ。玉造温泉、城之崎温泉、天橋立、ここでは雨でした。
    25日新幹線の京都駅ホームで…、あっという間の一週間でした。

    京都と関東、700キロの隔たりは遠すぎます。でもこれでいいのかもしれません。
    溺れないためにも、プラトニックラブを長続きさせるためにも。
    その後は電話でのおつき合いです。

    異性を好きになる。それだけで気分の高揚を覚え、気分の高揚は脳神経に刺激を与え、体中の活力を促す。
    それは年齢に関わりなく、彼女も同じ考えです。

      このページを プリントして彼女に送りました。
    大変に喜んでくれた彼女は、これを息子さんに見せたそうです。
    それを聞いたとき、冒険だなー と思いました。
    案の定 それを見た息子さんの表情は険しく 何も返事をしないで・・・
    彼女は悩んだそうです。後悔したそうです。でしょうね いくら嬉しかったからと言って 
    数日後 「母さんがそれで楽しいんだったら いいんじゃない」
    理解してくれたそうです。信頼しあった親子像の姿がありました。

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    ロングドライブ   @  

    平成14年10月26日東京オフ会に参加した後、茨城県に住むプラトニックラブのパートナーを訪れました。
    京都から離れること車で約700キロ 昨年5月に山陰地方へ一緒した以来の出会いなんです。
    久しぶりの再会なので実によく感情がこもりました。

    翌日 そこを出発、東北・磐越自動車道を経て新潟へ。新潟ではとうとう雨でした。
    佐渡島へ向かう午後6時半の連絡船に乗船、途中から雨風がだんだんひどくなり船は大揺れ
    2等船室は雑魚寝の客で満員でした。私船に乗るのは九州へ行ったカーフェリー以来30年ぶり
    隣り合わせた乗客が毛布を取りに行ってくれたり会話が出来たり、いいもんですね。
    乗ること2時間半佐渡島の両津港に着いたのが午後の9時、
    港の出入りに約20分航行時間2時間あまり時速約30キロとして、新潟から佐渡までは約60キロでしょうか。

    両津港に降りたときは、文字通り暴雨風でした。真っ暗な中の海岸通りを走るのは心細いものです。
    その間は緊張の連続。途中暗闇に波の花の舞うのが見えました。
    ホテル到着が10時、彼女と共にほっとしましたが 二人ともさすがにぐったり。

    次の日も暴雨風です。久しぶりにホテルから日本海の荒波を観る事が出来ました。

    私も彼女も富山県の海岸の町で育ったので、日本海の荒波を観るのは珍しくしくはありません
    でもここは同じ日本海でも本土から離れた海の中です。荒波はまともにぶつかっていました。壮観です。

    昨夜と同じ道を通って両津港に向かいました。再び波の花の舞うのが見えました。

    これが私の観たかった日本海です。、荒れ狂う波、来た甲斐がありました、しかも風と雨、暴風雨。納得です。

    帰りの新潟行きカーフェリーは、午前中欠航していたので車も乗客も満員です。
    無数のカモメが見送ってくれました。(本当は乗客の投げる餌を求めて群がっていたのですが・・・)

    外洋へ出たとき虹が見えましたしかもダブルです。

    これでこれから晴れると思ったのですが・・・  

    無事佐渡島行きは終えました。観光は出来ず終いでしたが・・・。
    新潟から北陸道を通って富山・金沢を経て山代温泉に向かいました。
    相変わらず雨風は強く、暴風雨の中を走りました。初めての経験です。



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    京都に向けて走った3日目は 雨は小降り それでも時々強い雨風でした。
    着いた京都は晴れていました。
    この3日間、天候には恵まれない本当に暴雨風の中のドライブです。
    わたしにとってははじめてのこと、勿論同乗の彼女にとっても・・・

    京都の私の家で一泊して4日目は淡路島へ走りました。今度は快晴です。

    佐渡島と山代行きは何れも到着が、雨の中を夜だったので   
    あたかも 夜男と雨女 の組み合わせだと大笑いしました。

 
    5日目の昼過ぎ京都へ帰着。途中寄ったデパートで彼女はしゃれたセーターを買ってくれました。
    ドライブ中でもホテルでもいろんなおしゃべりをしました。
    お互いの過去や今の様子など、本当に残すことなくおしゃべりをしました。
    あらためてお互いを良く知りあいました。楽しい想い出になりました。

    私にとっては、10月25日に京都を出発して31日に帰着した7日間、実に 2000キロ
    この間夜はぐっすり休んでいるので不思議と疲れも出ず、毎朝快調でした。

    70代最後のロングドライブ プラトニックラブのパートーナーと一緒にです。達成感

    80歳になってもまだまだ走れそうです。自信です。



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      ロングドライブ  A   15-11-5〜12  

    一年ぶりに彼女すみちゃんを伴ってロングドライブをしました。

    平成15年11月5日 富山市水橋に集まり3年ぶりにの小学校のクラス会がありました。
    すみちゃんは関東茨城から息子さんの車に送られて出席しました。私は京都からドライブで出席 落ち合う約束です。
    男6名女10名の出席です。70年前の卒業者約100名中今生存者約40名
    皆80才ですから昔からみたら多い方ですよ。そして皆元気。私も・・・

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    小学生の頃海水浴に行った浜黒崎の海岸です。当時は遠浅の砂浜だったのですが
    いまは防波ブロックに防波堤 でも松林はかろうじてのこっていました。
    そして当時夕立のあって雨宿りした 親鸞聖人の腰掛けの松が枝は剪定されて形だけが残っていました。

    今までに戦死や病気で半数あまりが亡くなっています。その菩提を弔いました。
    ホテルに着いて一風呂浴びて 乾杯です。  美人の彼女は男どもの人気です。誰かが横に座って話し込んでいる。
    彼女は時々 ちらっと私を見て「いいの?」って感じ  「いいよ いいよ」 と 目で合図。

    翌6日からが彼女を伴っての二人だけのロングドライブが始まる。

    金沢にて一泊。駅前のAPA-HOTEL 夕食なしで朝はバイキング ビジネスホテルです。
    金沢観光は兼六公園からです。松の木の雪吊りを見ました。松の木だけかと思ったら他の木もするんです。
    綺麗な池でした

    観光タクシーに乗りました。3時間1万円 これは便利でした。
    先ず 加賀百万石祈所 妙立寺 人呼んで 忍者寺 コレは余り知られていないようです。
    実に複雑な建築構造です。外観は2階建て内部は4階建て7層 部屋が23、階段が29.最上階は物見台となり
    お城への逃げ道といわれる大井戸など・・・ 隠し階段、落とし穴階段、明かり取り階段などなど仕掛けはいっぱい。
    写真撮影は一切禁止なのでその数々を紹介できないのが残念です。

    次は 金沢のお茶屋街です。 江戸時代末期のお茶屋がありました。
    お座敷に続くいろり端で一休みしました。古井戸も覗きました。

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    武家屋敷の界隈も回ったのですが写真がなくて・・・風情がありました。

    その夕方京都に帰りました。約700k

    第2弾は10日より 安芸の宮島へ向けて・・・
    早く目が覚めたので朝6時走り出しました。高速道路は快調比較的空いていました。

    安芸の宮島へ着いたときは雨でした。でも観光客のなんと多いこと。平日と変わりないそうです。
    海辺を鹿が餌をあさって歩いているのです。

 
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    翌11日は広島の平和記念資料館を訪れました。
    初めてです。数多くの原爆被害の資料を目の当たりに見て、同じ世代を生きた者として辛かったです。
    小学生から高校生まで大勢の修学旅行生は熱心にメモを取っていました。珍しいポストを見ました。

    次は倉敷市の大原美術館へゆきました。 アート感覚のあまりない私には、周辺の雰囲気に納得しました。
    その夜は瀬戸大橋の本土側の付け根児島IC近くのホテルに泊まりました。
    部屋から見える瀬戸内海に ひょっこりひょうたん島 が浮いて?いました。
    ホテルのロビーに 大きな像の彫刻がありました。聞けば 樹齢2000年タイ産のアカシア材の一刀彫です。
    重さ3t 高さ2.5m立派なものでした。

    12日ホテルを出て 瀬戸大橋を経て四国に渡りました。快晴です。
    高松・徳島から鳴門大橋 淡路島を縦断して明石大橋を本土山陽高速、名神高速 京都へ無事帰りました。
    計900k 80代最初のロングドライブの走行は計1600kでした。

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    14日昼彼女を京都駅新幹線のプラットホームに見送りました。
    10日間に及ぶ彼女と一緒の生活 久しぶりに家族との生活のようでした。
    その間いろんなお話をしました。互いの家族のことや生活のあり方を90%かたを話し合いました。
    10%を残すところがプラトニックラブのあり方なんです。
    このつき合いをいつまでも続けようと思います。

    家にいる間はパソコンで写真の整理をして彼女に見せました。
    彼女の顔写真をメイクしてみました。下の写真をクリックしてください。80才に見えます?

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     ロングドライブ  B   16-11-7〜16  

    今年も 一年ぶりに彼女すみちゃんを伴ってロングドライブをしました。

    このロングドライブ 今年で何回目になるのでしょうか
     11年10月 奥州仙台から松島・花巻温泉 が第1回目です。2000q
     12年10月 北陸から長野を経て東京へ1500q
     13年5月 山陰の松江・天橋立 1000q
     14年10月 新潟佐渡島 北陸・淡路島2000q
     15年11月 富山・金沢・広島平和堂・厳島神社1600q
     16年11月は 伊豆半島・長野県諏訪湖・奥琵琶湖一週です。 1750q
     通算約10000qに及ぶと言うところでしょうか。

    初日の11月7日は 未明に京都を出発 東京に10時半 
    東京では私が加盟しているスローネットの仲間とオフ会をやりました。
    そのまま 茨城県に住む すみちゃんの処へ 650q 一泊して
    2日目は伊豆半島を目指しました。下田港で一泊です

    3日目 伊豆半島の真ん中を北上縦断 天城峠が目的です。
    ここは昭和の初めに川端康成の小説「伊豆の踊子」の舞台です。
    大学生と踊り子の淡い恋物語 私が20才のころ女学生との初恋に重ね合わせて以来 憧れていたのです。
    天城隧道は今も当時のまま旧街道に残っていました。
    国道から旧街道の分かれ道に駐車場がありました。殆どの人はそこから徒歩で訪れるのですが
    私達は旧街道の山道を車で行きました。隧道の入り口には「伊豆の踊子」さんのお出迎えです。

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        (写真をそれぞれクリックすると大きくなります)

    4日目長野県諏訪湖畔で一泊 これも「湖畔の宿」への憧れです。そして京都へ帰りました
    翌日は琵琶湖最北にある隠れ集落を訪れたくて一週しました。
    ひっそりとした集落で一泊 琵琶湖の最北端湖に注ぐ源流の川の流れもありました。
    沖の島に渡りました。頂上までの長い石段 登りました。八十八カ所のお寺があります。

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    すみちゃんを京都駅に見送りました。あとはまた独りの生活です。

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       ロングドライブ  C   17-6-18〜6-23 

    今年も 一年ぶりに彼女すみちゃんを伴ってロングドライブをしました。

   6月18日、兄の3回忌を法要を機会に上京し、そのついでに茨城のすみちゃんを訪問しました。

   一足早い七夕の出会いです。そして19日と20日木曾街道をドライブしました。

   18日未明の1時半自宅を出発、途中で3回睡眠をとり東京に着いたのが11時お寺までゆっくり間に合うつもりが
   首都高速で事故のため渋滞に巻き込まれて1時間のロス 着いたのが12時15分でした。
   法要を済ませ故兄の家族みんなと会食、楽しいひとときでした。

   すみちゃんとは昨年の11月いらいです。元気にして待っててくれていました。

   そこで一泊、翌19日出発 中央道を経て木曽路に入りました。
   妻籠宿は素朴な雰囲気の集落です。その一つ「かめやま」に泊まりました。
   「かめやま」は農家をそのまま利用している文字通りの旅籠です。

   泊まり客は外人父子と私たちの4人だけです。
   その外人さんはハワイからの観光に日本へ 東京・横浜・箱根そして木曽へ・・です。
   何故木曽に関心を持ったのか2泊目でした。
   素朴な田舎料理 上手にお箸を使って全部平らげられていました。
   私達は英語はダメ。外人さん父子も日本語はダメ、言葉は通じないものの
   単語の綴りあわせとゼスチュアで仲良くなり 乾杯しました。

   「かめやま」の経営者はなんと私と同じ大正12年生まれ、
   しかも軍隊も現役で近衛連隊も同じとは偶然、話も合いました。

   街道筋は昔のままとか、電線も見えません 全部隠してありました。
   珍しい水車小屋も見ました。
   馬籠宿はずーっと坂道でした。

   木曾街道を堪能して京都への帰宅につきました

                (写真をそれぞれクリックすると大きくなります)
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小高いところの一軒家が旅籠でした
郵便局です
妻籠宿の街道
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旅籠の経営者と・・・
外人さんと乾杯しました
水車小屋 です
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木曽川の渓流です
大きな石(花崗岩でしょうかがごろごろ)
綺麗な流れです イワナ釣り本場


   21日 彼女の小学校時代の先生を滋賀県守山に尋ねました。
   私たちと一周り上の94才です。お元気でした。
   日頃は手芸をしたり絵を描いたり、そして絵日記をつけておられます。
   また週一回のディセンターでは請われてピアノも弾かれているそうです。



   22日 紀州半島那智勝浦への旅です

    紀州半島を縦断南下しました。
   途中から大台ヶ原へ登ってきました。30年ぶりです。
   曇り空ながら雨がなく山道の曲がりくねった道でしたが 全線舗装してあったので快適に走りました。

   大台ヶ原は野生の鹿が多くいて木の皮を囓るので木は枯死するのです。至る所に立ち枯れに木が目立ちます。
   標高1580b 晴れていたら見晴らしもよかったでしょうが、でも雲が下からわき上がるような景色

   久しぶりに自然の空気をおなかいっぱい吸い込みました。

   あと 吉野川沿いに熊野までホントに山道ばかり 緊張の連続でした。
   宿泊地那智勝浦についたのが19時半 海の見える部屋でした。

 
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大台ヶ原の
大台ヶ原の
大台ヶ原の
わき出る雲
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大台ヶ原の枯れ木
ダム
ここが大台ヶ原


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木立の中の山道




            翌23日は紀伊半島東側を伊勢周りで帰ってきました。
        これで私たちの年に一度のロングドライブは終わりました。
        全走行距離中一日おいて5日間、1900q 満足です。
        そして・・車も私の体もその後も順調です。

        26日すみちゃんと京都駅のプラットホームで別れを惜しみました。
        一足早い今年の七夕の出会い、無事に天の川を往復することが出来ました。

        来年の約束はしてません。その時はその時の環境次第ということで・・・
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軍国少年の恋  U      


    軍国少年の初恋物語   

    昭和18年夏、20才になった私は徴兵検査を受け、翌年1月に軍隊に入ることが決まりました。
    その頃に恋をしていました。初恋です。

    場所は、中国山東省済南市です。済南市は2600年前、中国の春秋時代、済の国の首都です。 
    当時私は華北交通済南鉄路局膠済線坊子(ぼうし)機務段(機関区)に勤務していました。

    済南在住の彼女、名前は「秀子」さん。色の白い、目の大きな、お下げ髪のお嬢さんです。
    済南女学校5年生、17才。当時の人気女優高峯秀子に面影が似ています。

    済南での家は、お母さんは内地の留守宅、お父さんと3人姉妹、その長女です。
    お父さんは、同じ済南鉄路局膠済線張店(ちょうてん)へ単身赴任の駅長さん。月に2〜3回の帰宅です。

    済南在住の先輩の宿舎を訪れたとき、近所の同じ社宅に住む彼女達が遊びに来ていました。
    すぐ仲良しになりました。私のことを「お兄ちゃん」って呼んでくれるのですから。
    末っ子で育った私、いっぺんに妹が3人も出来たので至極うれしかった。最高!
    一番下の妹は小学校6年生、私にべったりです。当の彼女は少し控えめ。
    新しい妹ができたのに、しょっちゅう会うことは出来ません。

    私の勤務している坊子(ぼうし)機務段から済南市まで約200キロ離れています。
    年に数回がせいぜいです。でも何回か会ううちに惹かれてゆきました。
    彼女の方も好意をよせてくれているようです。小学生のときのように片思いではありません。
    だから互いに好きあった これが初恋です。

    その年の秋、3人姉妹を連れて済南市の旧城にある公園へ遊びに行きました。
    家から遠いので、洋車という人力車を4台連ねて走りました。
    城内には、滾々と水が湧き出る大明湖という大きな池があります。
    池には大きな蓮が浮かび、周りにはしだれ柳。風情のある公園です。

    私たちが城門を入ったところにある大きな楼閣の高い石段を登りかけたとき
    「こらーっ おまえらこの非常時をなんと心得ておるか」
    楼閣に立って警備している歩哨の怒声が飛んできました。

    そうです。当時は男女が連れだって歩くことすら不謹慎なことだったのです。
    ましてや 私たち手をつないでいたのですから。
    あわてて歩哨の目に付かないところへとコースを変えました。
    広い公園の中を妹二人は駆け回っていたので、私達は初めてのデートをゆっくり味わいました。

    その日の夕食は彼女の家でご馳走になりました。久しぶりの家族団欒の雰囲気です。満足。
    食事のあと4人でトランプなどゲームをして遅くまで楽しみました。
    夜も更け妹たちが寝室に去ったあと、ソファーには彼女と二人だけです。話の中身は覚えていません。

    気がつくと外が明るくなりかけていました。いつしかうとうとしたようです。
    彼女は私の肩に頭をもたれて眠っています。窓から差し込む朝の陽を浴びたその顔は清らかです。
    思わずそっと額に唇を付けました。その気配に目を覚ました彼女を見て一層愛おしく覚えました。

    やがて妹たちも起きてきて
    「お兄ちゃん達 寝なかったの?」   「うん」
    ずーっとずーっとあとになって思いました。
    好きあっている二人。抱き合っても良かったのでは? せめて口付けくらいは…
    軍隊に入る身にとって。これが最初で最後のチャンスだったのに…。

    軍国少年として育った私には、そんな知恵もなかったようです。

    その年の暮れ、軍隊に入るため内地に帰る私は、最後のお別れに訪問しました。
    彼女のお父さんには初めてお会いしました。厳格そうな人でした。
    彼女はお父さんの後ろに座ってじっと私を見つめたまま、とうとう言葉を交わす機会もなく別れました。

    軍隊にいるとき「父に勧められて結婚をしたけれど離婚した」との手紙を貰いました。

    そして昭和20年8月15日、 遵化市(北京と万里の長城の中間)の駐屯地で終戦を知った。

    日本は戦争に負けたんです。中国では戦争中威張っていた日本人。これからどうなるのだろうか。
    当然大混乱が予想されます。真っ先に彼女の消息が気がかりでした。

    ここで除隊(軍務離脱)して済南へ行って彼女を助けたい。部隊長に懇願しましたが許されなかった。
    いっそ脱走して中国人に化け、400キロ歩いてでも行こうかと必死で考えましたが。
    結局、小説みたいなことは不可能でした。

    私は復員帰国しました。彼女は無事帰国しただろうか。内地の留守宅は東京だと聞いていたが。
    その後何回か東京に足を運んで手がかりを求めたが、どうにもならなかった。
    年月は経つ。経った。 プッツリ。

    ところが、私が平成11年5月団体旅行で済南へ行った時のことをホームページに入力したら、
    その翌年知らない方からメールを貰った。

    その人のお母さんが少女時代に済南にいたという。
    「お兄さん達が、3人姉妹のお風呂を覗こうとして壁を壊してお母さん叱られた」 と。
    ドキリとした。まさしくその姉妹だ。しかしその後の消息は分かっていない。

    またもや プッツリ。     

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  彼女の消息がわかりました。   

    平成15年6月、華北交通済南鉄路局に勤務していた人たちの集いがありました。
    私は今回初めてこの集いの案内を貰ったので喜んで参加しました。
    誰も顔見知りは無かったのですが、そこは昔済南での懐かしい話で盛りだくさん。すぐに親しくなりました。
    一人一人の話を聞きながら、女性5・6人のグループの前に座ったときです。
    皆さん済南女学校を卒業して直ぐに済南鉄路局のタイピストに採用された元お嬢さん方でした。

    済南女学校と言えば、秀子さんの出身校です。もしや知ってる方がと思って・・・
    そうなんです。皆さん知っていました。彼女は下級生の憧れだったようです。
    しかも数年前の同窓会にも出席していてよく知ってる方がいたんです。
    60年来あんなに求めていた彼女の消息が今わかったのです。
    これは奇跡です。しばらく声がつまって言葉が出ませんでした。感動です。神に感謝しました。

    彼女は終戦の混乱をくぐり抜け日本にたどりつき今日まで生き抜いてきたんです。
    それを思い浮かべるとき涙が出ました。会いたい 今すぐに会いたい!
    でも住所の確認は同窓会名簿を送ってもらってからになりました。

    6月9日彼女の住所をご存じの方から教えて頂きました。
    さっそく手紙をかきました。

    秀 子 様
    突然のお便り 驚かれましたでしょう。
    私は 60年前済南でおつき合いしていた 内田健二です。覚えていますか?
    先日旧済南鉄路局の関係者の集いに出席したとき、偶然貴女の消息を知りました。
    私は驚きと感動のあまりしばらく声が出ませんでした。
            −− 中 略 −−
    お元気にしてますか? 私は元気です。
    お会いしたいですね。 是非お返事を下さい。待っています。

  60年ぶりに再会しました   

    6月23日、10日あまりも音沙汰がないので、体調を崩して入院していて手紙を見ていないのかしら
    と思いつつ住所を教えて頂いた方に、その後の消息をご存じかと思って電話しました。
    そうしたら 「2年前に脳を患い現在自宅療養されている」とのこと。 

    思い切って電話をかけました。パートナーさんが応答され
    「脳を患ってから、意識は明確なので相手の言葉は理解するけれども言語障害がある
     加えて右の手足が不自由なので立ち居振る舞いが少し不自由。あなたの手紙を見せたところ頷いていた。
     しかし意思表示が明確ではないので返事を書くのをためらっていたところです」   と。

    パートナーさんのご理解を得て訪ねることにしました。

    7月6日 七夕の前の日に再会しました。   

    京都から東京まで新幹線です。ホームに電車待ちの舞妓さんを見ました。
    了解を得て写真を撮らせて貰いました。幸先の良いことです
    朝が早かったので一眠りしようかしらと思ったのですが とてもとても・・・

    彼女の家の玄関に立った時ドキドキです。部屋の中で彼女は椅子に掛けていました。
    「秀子さ〜ん 元気だった? 覚えてる?」手を握りしめての呼びかけです。
    言葉が出ないのでしきりに頷いています。涙が出ていました。私は努めて明るく振る舞いました。

    思い出を話題にしました。
    済南の大明湖の周りや大きな公園を手を取り合って走り回ったこと、夜通しおしゃべりしたこと、
    彼女はしきりに相づちを打ちながら懐かしそうな表情をしながら、時々言葉を出そうとするのですが、
    どうしても出ないので、そのもどかしさを抑えるかのように胸にてをあてていました。
    「いいよ」 と言うつもりで、私はその間ほとんど彼女の手を握りしめていました。

    戦後の様子をパートナーさんから聞きました。結婚するまでは必ずしも平穏では無かったようです。
    結婚後の写真を見せて貰いました。民謡踊りを披露するあでやかな姿がたくさんありました。
    病気するまでは、北海道や九州など各地の旅行したり、勿論京都も訪れたり、
    活発に動き回っていたようです。

    パートナーさんは小柄で優しい人です。年齢は私より上ですがなんと現役でお勤めされているのです。
    昵懇にしている会社の社長さんに是非にと請われて、今でも続けているとのこと。
    それでいての介護ですから頭が下がります。昼はホームヘルパーさんの世話になっているそうです。

    介護は24時間ですから大変なのです。私が妻を介護したときはまだ体力がありました。
    「年だからしんどいこともあるけど、やれるだけやります」 と。

    60年ぶりの再会 お互いが健常者同士であればもっとドラマチックだったかも知れません。
    これが現実です。しかし私は60年の思いを遂げたのですから満足でした。彼女も同じだったと思います。

    それぞれの人生。常に今が幸せだとの思いを大事にして歩みたいと思います。

    彼女は、私の贈った花束を抱いてカメラにほほえんでくれました。

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