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みたり・きいたり 『主一人』  8   

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  家 族 の 絆  


    私の家族を逐次 紹介します。 兄 ・ 妻 ・ 母 ・ 娘(未稿) の順に・・・  

   兄 (悦平=お兄ちゃん) が85才で亡くなりました。     

    平成15年6月17日朝5時 電話で兄の危篤が知らされました。
    いちばんの新幹線で横浜の病院に駆けつけました。
    すでに意識は朦朧です。でも私の来たことは認識したようです。そのまま付き添いました。
    午後7時37分息を引き取りました。腎不全・脱水症・両肺炎が診断でした。

    13年10月、兄夫婦は老後のことを考慮して長年暮らしてきた大津を離れて娘家族が居住する横浜に移住していた。
    その頃から移住準備の過労からか腰を痛め起居に不自由をしていた様子。
    もそして今年5月には念願だった同居をしたばかりだった。その一週間後
    ユリさん(妻)が脳梗塞で入院した。兄はその頃から食欲が減退し水分もあまり摂っていなかったのです。
    でもあまりの急変に驚句と同時に、長患いしないこの死に方をうらやましいと思いました。

    兄弟って5つの年齢差があると喧嘩しないものでしょうか? 私はよくかわいがってもらいました。
    幼少の頃こんなことがありました。家の前の小川の縁で私が兄を後ろから押したんです。
    兄は見事にジャンプして跳び越えました。私の方がジャブンです。水の深さはわずか10センチでしたが。
    お祖母ちゃんっ子だった私は叱れず兄がこっぴどく叱られまそた。
    それでも兄は私には一言も文句をいいませんでした。

    夏は川や海で泳いだり潜ったりを教えてくれたり、冬にはスキーを教わりました。
    夏休みにはキャンプににも連れて行ってくれました。

    兄は昭和14年9月招集され入営しました。東京麻生の近衛輜重連隊です。
    内地で訓練を受けた後、中国大陸中部(旧中支です)に駐屯していました。

    兄は、軍務の合間を見ては趣味で短歌を作り留守宅の母に送っていたようです。
    平成7年2月これをまとめて回顧録としてまとめました。これをこの度 ここ  に登載しました。

      思 う こ と(回顧録を編集したときの兄の感想です)

   戦後五十年に当たり、この書を出すことの感慨ひとしおのものあり。
   先ず亡き母が書き遺しておいてくれた巻物にてこの書を作ることになった。
   これを是非霊前に供えたい。

   ところで、この歌集を見る限り生死をかけた戦場の悲惨さはあまり感じ取れない。
   何か長閑な紀行のようでもある。事実自分の配属していたその時期の自動車輸送部隊の行動範囲にもよるが
   中国大陸の戦場はこのような様相であった。

   しかし、それ迄の中国戦線に於ては、後日に知り得た事だが南京攻略其の他に於ては、
   相当な残虐行為もあった様だ。
   自分が南京に滞在した時はその直後であり、何かしら異様な雰囲気を感じた記憶がある。
   戦時中の日本軍の野蛮行為、従軍慰安婦問題等も事実であろう。

   だがしかし其後の太平洋戦争に於ては当時の世界の先進大国を相手にしての戦争行為は
   巷間広く伝えられている通りのものであり、昭和十九年から二十年にかけては
   各戦線で沖縄で敗戦に次ぐ敗戦を重ね、国内に於ては主要各都市、地方都市へも空襲爆撃が相次ぎ、
   母、姉も富山市において大空襲の悲惨な目に遭い命からがら逃げてきた経験を持っている。

   自分は其頃は京都府大久保にて軍需会社に勤務していた。
   連日のごとく空襲の大編隊機が遥か上空を通過して行くのを眺めたことを思い出す。
   遂に二十年八月に広島、長崎にて留めをさされ無条件降伏、敗戦即ち終戦となる。

   終戦後即アメリカ軍に占領されその軍政下に置かれる。
   そうして、自由と民主主義を押し付けられ、日本の政治、経済、思想の大改革が行われた。
   此の事は国民にとって非常に幸福であったと思う。
   若し他の戦勝国が占領していたら事情が変わっていただろう。

   当時の日本は仕事が無い食糧が無い国民は四苦八苦の生活を余儀なくさせられていた。
   毎日が生きるのに精一杯の日常だった。

   これらの事はその時代を生き抜いてきた世代には決して忘れられない事である。
   ここにして思うことは、とにかく人生の運不運は何としても避けられないこと、
   自分はこの年齢まで幸運に生きて来られたことを感謝したい。

   戦時中は軍隊で自動車の技術と操縦を修得し、
   兵士で過ごしたお陰で南方戦線へも行かずに無事帰還出来たこと、
   京都に勤務したことにより妻とも巡り会えたこと、つくづく人の才能努力もさることながら、
   運命の不思議を思うものなり。 以上思いつくままに筆を走らす。

      平成七年二月         内 田  悦 平

    18年兄は召集解除になって帰宅しました。私は19年現役入隊です。入れ替わりです。

    終戦になって私が帰宅したとき、兄が出迎えて呉れました。横には綺麗な奥さんがいました。
    とたんに私は憧れました。私も結婚するんだったらこんな綺麗な奥さんがほしい。

    終戦後の混乱を乗り切るために、兄と私は懸命に働きました。
    昭和29年、私は不動産屋の職を選んで兄と一緒に始めました。
    39年それぞれ独立して店を持ちました。兄は大津で。私は京都伏見です。



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   いまは亡き 妻(泰子=たいこさん)     

    平成15年12月21日亡き妻の7回忌を営みました。
    亡くなったのは平成9年12月26日です。享年68才でした。

    昭和31年7月、先年家をお世話した方を訪れたときその妹さんが来ていました。
    見せた横顔は素晴らしい美人でした。聞けばまだ独身だという。
    その頃結婚を求めていた私の友人が居たので紹介しようと思って祇園祭の宵山に誘いました。

    考えてみれば 私もまだ独身です。このまま友人に紹介するのが惜しくなり
    話をしている内にその気分が高ぶり ついに
    「僕の食事を作ったり洗濯してくれないか?」
    「正式に出てきて頂戴」 筋を通せばOKするよっ てことなんです。
    この歳になって初めてのプロポーズです。 感激しました。

    それからは殆ど毎日のように逢瀬を続けました。いまで言うデートです。
    或る雨の降っていた日です。後ろは電車の高架の壁、前を傘で隠してゆっくり口づけをしました。
    だれも見ていないと思っていたのに、後で電車に乗って下を見たら何と丸見えの状態でした。

    昭和31年11月私たちは結婚式を挙げました。
    結婚式の当日、日赤病院に入院しているお母さんに花嫁姿を見て貰おうと、
    勇敢にもその姿で病院の廊下を走りました。おそらく前代未聞 みものだったと思います。

    結婚した当時の私は不動産屋として自立しばかりで収入も思うようにありません。
    そんな私を、彼女は得意の裁縫・編み物・洋裁の技を活かして、内職で支えてくれました。

    数年経った頃、彼女は
    「体調がおかしい いつも定期的に訪れるもの無いの」
    「日頃の運動不足のためじゃないの?」
    運動不足を補うために スクーターの後ろに乗せて市内を走りました。
    ボートに乗せました。ブランコをしに行きました。縄跳びもしました。
    「あったわ いつもより多いみたい」
    「よかったね」

    後になって彼女は姉に言われて知ったのですが
    「私妊娠してたのかも知れないんだって。普段よりも多い排泄は動きすぎて流産したんだろう って
    お互いにそんな知識なんか全く持ち合わせない二人でした。。

    それから彼女は産婦人科へ通いました。私も検診を受けさせられました。
    どちらも異常は無いのですが、体質的に弱かったようです。とうとう妊娠はしませんでした。

    結婚をして8年、商売も順調に進み念願の家を持つことが出来ました。

    昭和42年2月19日、私が建て売り住宅の仕事に携わっているある時のことです。
    建て売りを買った若夫婦が引っ越しのトラックに乗って踏切に差しかかったとき特急電車にはねられ
    運転席の若夫婦・祖母、荷台に載っていた兄、4人が即死したのです。
    が、祖母に抱かれていた幼児が生きていたのです。奇跡でした。

    その幼児が後に我が家の養女となった 尚代 です。
    妻は早速病院で、頭から身体の殆どを包帯でぐるぐる巻きにされている幼児を見舞いました。
    幼児はそれまで誰とも口も聞かないのに、
    妻にはあちこち指さして訴えていたのには付き添いさんも驚いていました。
    この幼児を、いろんな状況をみて我が家に引きとることを決めたとき、親戚や周りからは
    「ひょっとしたら傷害を持ってるかも知れないのに・・・」
    「この子は私の子どもです。どんなことがあっても護り抜きます」  と。

    以来その幼児が我が家の一員となり、娘となった時の妻の喜びようは大変なものでした。
    着るものも自分とお揃いを作って着せたり、まるでお人形さんのようなかわいがりようです。
    娘の名前は「チャコ」です。幼稚園・小学校は、当時お嬢さん学校と言われた私学へ入れて送り迎えです。

    その娘が高校生になった頃、それまで専業主婦と子育てに邁進してきた泰子は
    近所に喫茶店の売り物が出たとき、全く経験が無いのにそれを買って喫茶店を始めました。
    娘の名前をとって「Chaco=チャコ」と名付けました。調理師の免許も取りました。

    近くに龍谷大学があって毎日学生達が大勢来てくれました。
    聞けば、学生達の間では美人ママの居る店として評判のようでした。常連のフアンもいました。
    連日流行っているので彼女も大忙し。が2年そこそこでついにダウンしました。

    娘チャコが18才になったときです。運転免許を取るために初めて自分で住民票をとりました。
    「パパこの住民票おかしいよ 間違ってるんと違う?」
    「どうした?」
    「だって 続柄のとろ 長女でなく養女ってかいてある」
    「うん? パパは仕事に出掛けなければならないから ママに聞いてご覧」
    ついに恐れていたことが その時がきたのです。私は一瞬言葉が出てこないので返事を妻に振りました。
    泰子も一瞬慌てながらも 直ぐに冷静を取り戻して、説明したようです。

    私たちのドライブツアーはいつも娘が同伴(おじゃま虫)、二人っきりでしたことがありません。
    娘も大学生 これからは留守番させて二人で旅行するための下見のつもりで

    パックツアーに参加して私一人、中国の北京・上海へと旅行を終えて
    空港に降りたとき、妻と娘が出迎えに来ていました。聞けば妻がハンドルを持って来たと。
    驚きです。いままでそんな長距離、しかも高速道路を走るなんて初めてのこと。
    高速道路でのスピードをだすのが怖いのでずーっと70キロで。しかも追い越し車線をです。
    その方がもっと怖いのに、が平気だったようで。がホントは走行車線にハンドルが切れなかったようです。
    大胆というか、怖いもの知らずというか・・・ そこから家まではもちろん私がハンドルを持ちました。

    次の日曜日 3人で鳥取の砂丘までドライブしました。これが最後のドライブなろうとは・・・
    昭和57年9月18日彼女は脳内出血で倒れました。53歳でした。

    ここから彼女の闘病生活、私には介護と主夫の生活が始まりました。15年間です。
    詳しいことは 「主夫してます」 と重複しますのでそちらをご覧下さい。

    この間の主な出来事を述べます。
    昭和60年4月5日 退院 後は在宅療養 時々入院します。
    平成元年11月18日 娘結婚。妻と私の二人だけの生活となる。
    同3年2月22日初孫誕生
    二人っきりでのドライブツアーしました。 能登半島北陸 山陰出雲大社 

    平成9年12月26日、妻は68才の生涯を終えました。

    私を泰子に引き合わせてくれたその姉(つたえさん)は平成15年12月に亡くなりました。
    今頃はあの世で姉妹仲良く思い出話にふけっていることでしょう。
    そして妻の遺骨はわたしの胸のペンダントに収まって私を見守ってくれています。
    私は妻の介護することによっていろんなことを学びました。感謝しています。

    私たち夫婦は互いに何も隠すことなく仲良く暮らしてきたのですが
    私には最後まで、どうしても打ち明けられないことが一つだけありました。
    それは母への仕送りの内容でした。

    私は結婚するまで母と暮らし、良いときも悪いときも兄と一緒に生活を支えてきました。
    結婚してからも続けました。ところが生活環境の違いから泰子にはそのことが理解出来なかったのです。
    親の面倒を見るのは子ども当然の義務であることは認識していましたが
    それは長男の義務としての理解でした。次男である私が何故? と言うことです。
    いくら説明しても理解しようとはしなかった。だから私は兄と平等の金額を内緒で仕送りを続けました。

    このことだけは辛い思いを続けました。が全てが終わったのです。



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   母 (みのる=かあちゃん)     

    私の母(みのる)は明治23年に生まれ、平成5年没。享年102歳だった。
    父は大正13年1月、私の一誕生前に42歳で亡くなっている。時に母は33歳。

    大正4年頃でしょうか。母は内地(福井)を離れ、当時の満州にいる友人を頼って行く途中
    朝鮮半島を走る汽車の中で、父と出会ったそうです。父は 朝鮮鉄道の一駅長です。
    当時まだ日本人の少ない朝鮮鉄道の汽車の中。美貌の女の一人旅。目立ちますよね。
    父は勿論一目惚れ。母だって駅長とすぐにわかる姿の男性に手を取られたらたちまち意気投合。
    満州行きを途中下車してそのまま父と結ばれたようです。

 

    この時代(90年前)に恋愛結婚をした両親を持ったこと 誇りに思います。

    翌年子どもを産むために内地の福井へ里帰り。道中お弁当の替わりに当時は貴重品のバナナを数房。
    2等車に乗っている美貌の人妻がバナナをむしゃむしゃ食べてる姿。どんなだったでしょうね。

    2番目・3番目の子どもは朝鮮で産んだとのこと。その時は祖母が手伝い行ったそうです。
    大正10年頃でしょうか、父は朝鮮人の引き起こした不祥事の責任を取らされて解雇。内地送還です。
    それまでの余裕のあった生活からいっぺんに谷底に落ちたようです。

    内地では、母の実家や父の実家を転々一所に落ち着くことも出来ず、多少の蓄えも底をつき
    大正12年私が生まれた頃はどん底生活。父はその9月に起こった関東大震災で仕事見つけに東京へ
    そこで過労になって病に倒れ快復することなく死亡しました。

    残された4人の子どもを抱え、母の奮闘が始まりました。
    先ず富山に居た実家に身を寄せたのですが、まもなく漁師と売薬の町水橋の郵便局に職を得ました。
    そして郵便局のあらゆる業務をこなすなかなかのやり手だったようです。
    また狭い町です。美人でやり手の郵便局員さんとしても人気があったようです。
    おかげでその子どもである私たちも、町中の一般の子どもとは別格に見られていました。

    しかし仕事はきつかったようです。冬の雪の降り積もる寒い中、保険の勧誘 に周囲の村々を訪れ
    片道約10キロの道のりを歩いて夜遅く帰ることが度々あったのをよく覚えています。

    でも仕事の合間には、近くのお山に遊んだり海水浴の連れて行って貰いました。
    私は末っ子だったのでよく可愛がられました。小学校に入ってからでも添い寝していました。

    私たちの兄弟姉妹の長姉は高等小学校(2年制)、長男と私は中等学校(5年制)次姉はの女学校(4年制)です。
    当時は殆どが小学校か高等小学校(2年制)の就学なのに中等教育を受けさせてくれたのです。
    誰からも援助を受けない完全な母子家庭なのに、どこにそのようながんばりがあったのでしょうか。
    敬服します。

    昭和12年次姉の女学校卒業と同時に、大阪に就職して2年経って生活の基盤が出来た兄は、
    母に仕事を辞めて貰って大阪に引き取りました。私も一緒です。

    昭和14年兄は応召されました。同15年私は大陸に就職しました。
    兄に代わって一家の男手だった私の大陸行きをよく承諾したものと思います。
    おそらく母は若いときに一人で朝鮮へ渡ったことがあるので理解してくれたのでしょう。

    同18年兄は応召解除 19年交代するがのごとく私が軍隊へ 戦争の真っ最中です。
    同20年母は姉と富山へ疎開。そこで大空襲を受けて家財一切が焼け、自分も溝の中に潜んで助かったという。

    戦後 兄も私も所帯を持ち平等に仕送りをして母の生活を支えました。
    が 母はどちらのお嫁さんとも折り合いが悪かったのか姉との二人暮らしを続けました。
    でも私たち兄弟にはいつも機嫌良く、よくドライブに連れ出していました。

    100歳になった頃から耳が聞こえなく目も見えなくなり、寝たきりでした。
    波乱の生涯を終えた母は、平成5年10月31日老衰で眠るように亡くなりました。



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