「にしうら」からこんにちは
トップページへ戻る

               

はじめに ご挨拶と戦時中体験記の目次をご案内しています

  軍 隊 生 活   昭和19年1月〜同20年12月(地名など、当時の呼称をご理解下さい)

     は じ め に 

    戦後57年が経ちました。毎年8月15日が来るたびに2度と戦争があってはならないと言う思いが強くなります。
    しかし、今の世相しか知らない人たちの思いも同じではあっても、切実感が薄らいでいます。
    戦争を体験した私にとっては、そのことを知らない人たちも知って貰って
    「2度と戦争があってはならない」この思いを共にしたく 体験記を書くことにしました。

    しかし私の体験は限られています。当時の北支の北の一都市に駐屯していたこと。戦闘体験が少ないこと。
    むしろ内地における空襲に会われた方々の体験の方が悲惨であり過酷なものであったと思います。
    戦争により、実被害を受けたそれら無辜の人々の体験記が数多く出てくることを期待したいです。

    
      入   隊
    昭和19年1月、前年に受けた徴兵検査で第1乙種合格だった私は、現役として軍隊に入りました。
    時は第2次世界大戦の真っ最中。前線では緊迫した状況が続き、翌年日本は戦争に負けました。
    軍隊に入った以上、お国のために死ぬことは当然のこととして覚悟を決めていました。
    いわば、戦に勝つためには命をも捧げることを叩き込まれて育った軍国少年だったのですから。
    人の命の尊さは、国に捧げることこそ とした軍国主義の徹底した時代でした。

    内地の連隊に集結させられた私たちは北支に在る部隊に送り込まれ、ここで訓練されました。

 

    朝鮮の釜山から北上当時の満州を経由山海関→唐山まで列車にて、ここから軍用トラックで「豊潤」です。
    当時はどこをどう通ったのか、列車の窓は開けられないので見当がつかなし、 着いてからでもここが何処か?  
    一兵隊には何も知らされないのです。作戦上の軍事機密なんです。勿論地図なんて見たこともありません。

      初 年 兵
    私は歩兵科の中の、歩兵砲科の班に入れられました。後でわかったのですがかなり体力の要る部署です。
    体育系ではない私にとっては過酷な訓練の連続でした。がここである程度の体力と根性が鍛えられました。
    班は40数名、軍曹の班長に2年兵と3年兵の上等兵の二人がが助手として 付いています。
    班長は別室ですが、助手は班内で起居しているので、私たちは46時中監視されているようなもの。

    軍隊でのビンタは強烈です。単独の時は普通平手打ちですが時には革底のスリッパが使われます。
    集団責任でやられるときは、全員整列直立不動の姿勢をさせられ、革ベルトでやられます。
    逃げることは勿論避けるさけることも許されません。終わったときは「ありがとうございます」です。
    ビンタは強烈に応えますが、不思議と怪我をした経験は殆ど記憶していません。

    訓練は、歩兵の基本に加えて連隊砲や大隊砲の操作です。これらの砲の分解搬送は大変です。
    いくら分解しても重い物は一個で100キロ近くあります。だから馬を使います。
    馬の扱いを一通り覚えます。馬の鞍にこの100キロ近くのものを載せるのです。体力が要ります。
    一通りの訓練が終われば古参兵と一緒の行動をすることになります。

      討  伐  行
    当時中国には、中支の区域の一帯は蒋介石の率いる国民党軍があって日本軍と対峙していました。
    私たちの居た北支は毛沢東が率いる共産党第八路軍が我々と対峙する形で存在しました。
    日本軍は中国全土を席巻しているように言われていましたが、都市部に駐屯していたので
    その周辺と鉄道路線、いわゆる点と線を支配して中国の治安を維持していると称していたのです。

    共産党第八路軍にとっては日本軍は敵ですから絶えず攻撃を仕掛けて来ました。
    対して日本軍は、八路軍を治安を乱す匪賊として討伐の対象にしていました。

    訓練を終えた私たち新兵もこの討伐行に参加させられました。一回の出動は一週間ないし10日間です。
    一日の行程はだいたい30〜40キロ、完全武装ですから相当応えます。が落伍はできません。
    夜間行軍の時、疲れたので馬のしっぽを掴んで引っ張られて歩いていました。
    先頭が止まったので馬も止まります。眠りながら歩いていて知らない私は馬の尻にぶつかります。
    驚いた馬は後ろ両足で私の向こうずね蹴上げて来ました。不思議と骨折はしませんでした。

    大休止の宿泊は農民の部落です。友好的な部落では長老が迎えてくれます。女性の姿はありません。

    八路軍が出入りしていると見られる部落では、事前に情報が入っているのかみんな逃げて誰もいません。
    食料は米は持って行きますが、他は殆ど現地調達です。農民の飼っている豚や鶏野菜などを徴収します。
    代金を支払う相手がいないときは どうしているのでしょう?
    寝具類にはまだぬくもりがあります。私たちは情報収集の為と称して家財道具も放り出します。
    出発するときは後始末もしないから略奪をした後のようです。戦争しているだから当然という感覚です。

    戦後日本人が引き上げる途中、持っていた身の周り品が中国人の農民に襲われて略奪に遭ってます。
    このように戦争の被害を負うのは、いつも武器を持たない人々です。
    だから戦争をしてはいけないと思います。

    行軍中に戦闘があったある時、前線では撃ち合いが始まりました。命令伝達の役目を負った私は
    戦友と二人で100メートル程後方を歩いていました。ひゅーんと弾が飛んでくる音がしました。
    突然1メートル隣にいた戦友が「天皇陛下 万歳!」と言って前のもんどり打って倒れました。

    見たら喉に赤い斑点が付いていました。私は咄嗟に抱き起こして衛生兵を呼びました。
    弱い流れ弾だったのですが、喉に当たっていたのです。
    もし歩いていた位置が私と逆だったら  です。  運命です。

     そのころ日本では
    私たちは内地の様子は全くわかりません。戦後になって知りました。

    当時日本の主要都市は軒並み空襲を受けていたようです。
    特に東京・大阪は連日のように、B29の絨毯爆撃です。
    絨毯爆撃とは数百機に及ぶ爆撃機が連続して絨毯を敷き詰めたように隙間無く焼夷弾を落とすのです。
    当然 軍事目標だけではなく、無差別に落とすのです。東京も大阪も焼け野原になりました。
    そこに住む人々は、死んだり、重傷を負ったり、焼け出されたり逃げまどうだけです。
    これは地獄絵さながらだったようです。

    私の母と姉は、富山に疎開して空襲にあいました。家財道具は焼かれ着の身着のまま逃れ
    追いかける火炎を逃れるために、道路の側溝の中に身を潜め助かったそうです。
    広島・長崎に落とした原子爆弾は、一瞬のうちに一つの都市を破壊し焼き尽くし
    そこに住む人々を殺傷し、生存した者を長年にわたって苦しめ生き地獄の中に到突っ込みました。

    外地、特に北支に居た私たちは何のために何をしていたのか? 後になってようやく知りました。
    直接戦争しない人々の方が、より多くの被害を受け悲惨なめにあっています。
    これが戦争なんです。

      転     進
    昭和20年7月所属部隊に、転進命令が出た。行き先は関東軍が南方へ転進した後の補充として満州へ。
    当時私は下士官となっていて初年兵教育を担当、終えたところでした。

    昭和20年4月から、私は部隊行動を離れて初年兵教育を担当していました。
    この初年兵は、現役と補充兵の混在です。年齢も20歳から39歳まで、体格も相当差異がありました。
    訓練は私なりに厳しくしたつもりです。失敗を見つけたときは矢張りビンタを張っていました。

    訓練期間の終わり頃です。演習の帰り道3メートルほどの崖がありました。
    ここを宙返りして飛び降りることをみんなに命令したところ数名が躊躇したのです。
    「よし俺についてこい」 と私が見本のつもりで宙返りしました。
    ところが見事に着地に失敗。足を捻挫したんです。

    それから約1ヶ月歩けない状況が続きました。そこへ転進命令です。
    やむなく代理を責任者として行かせました。まもなく終戦です。
    行き先の満州で、転進部隊はそっくりソ連に連行されたことを後で知りました。
    私はその難をまのがれたのです。おそらく私はソ連での生活に耐えきれなかったでしょう。運命です。

      終  (敗)  戦
    昭和20年8月15日昼、天皇陛下の重大放送があると言うことで部隊全員が営庭に集められた。
    雑音の入ったラジオ放送は内容がよくわからない。
    後で部隊長の訓示があり、日本が無条件降伏で戦争が終わったことを知りました。

    部隊長には聴きにくいラジオ放送がどうして理解できたのだろうか?別に通達があったと思う。
    私たちは健在でした。だから無条件降伏が理解できずしばらくは半信半疑でした。
    広島長崎の原爆も知らない。東京大空襲も知らない。外部の情報が全くわからないままですから
    日を追うにつれてどこからと無く外部の情報が伝わるようになってきた。

    遡って8月10日付けで私は 軍曹から少尉に3階級特進しました。いわば敗戦将校です。
    功績もないのに意味不明です。ただ乙種幹部候補生で軍曹になったとき、士官適任を受けていました。
    当時旧制中等学校で行われた軍事訓練を習得した者は、軍隊では幹部候補生受験の資格があり、
    その合格者は成績によって、甲種は士官に乙種は下士官にと決められていました。

    私は2年兵になったとき、乙種幹部候補生として軍曹になっていました。
    甲種幹部候補生は特別訓練を受けて見習い士官となり、やがて他部隊に配置されます。
    乙種幹部候補生はそのまま原隊に残り、今までの仲間や古年兵達と従来通り起居を共にします。

    ここで軍隊の階級につて下から説明します。
    2等兵・1等兵・上等兵・兵長(ここまでは兵隊)、伍長・軍曹・曹長(ここは下士官)、
    (ここから士官=将校)准尉・少尉・中尉・大尉・少佐・中佐・大佐・准将・少将・中将・大将です。

    10月、国民党軍の依頼を受けて8路軍の攻撃を阻止するため出動した隊長が戦死しました。
    私たちにとっては、これが最後の戦闘でした。

    復  員 (引き揚げ) 帰  国  
    私たちは、昭和20年12月内地へ引き上げることが決まり、
    駐屯地からトラックと鉄道にて天津の東方 溏沽に集結、ここで武装解除して
    アメリカの上陸用舟艇LSTに乗船して九州に上陸帰国し、同25日家にたどり着きました。

    あとになって知ったことですが、当時外地にいた一般の日本人の殆ど未だ帰国していません。
    私たちは無傷で、手荷物をいっぱい持って帰ってきたのに
    その後に帰国した一般の日本人は、乗船地までの間、何百キロを殆どが徒歩移動。
    疲労困憊の上に途中略奪を受け、過酷にして悲惨さは文字通りの地獄地をさまよう有様だったようです。

    あのとき何故軍隊が、一般の日本人を置き去りにして先に帰国したのでしょうか?
    現地にある軍隊は、日本人を守ることが使命であったはずなのに、敗けて帰るときは真っ先とは?
    戦争とは、軍隊とは そういうものなのでしょうか?  未だに疑問です。

    戦 後 の生 活 
    
              未       稿
    
    
    
    



昭和19年1月(21歳) 入隊直前 家族(母・兄・姉二人)に見守られて・・・
  


    



にしうらホームにしうらについて俳句集川柳集主夫藤森神社リンクにしうら略史