10  記憶喪失症 その一 

お遊び 顔に足乗せたら噛むよ
テーブルの上でハイ ポーズ 後が心配


 記憶能力の著しい減退。それが妻の現状です。

 「チャコちゃん 来たの」 手を叩いて
 「やぁー 赤ちゃん出来た」
 「昨日も一昨日も毎日来てるじゃない」
 「知りません」
 「ママは 良太ん見るの初めて?」
 「そうですよ その子良太っていうの?
   前にも来てた子 そう言ってた 皆同じ名前だね」
 「 ‥ ‥ 」

 夕方テレビを見ながら食事の最中に
 「チャコちゃんは?」
 いつも居るのに見えないね の意味。さっき来てたのにもう憶えていない。

 「自分の家へ帰ったよ」
 「チャコ一人で住んでるの?」
 「いいや 良秀君(娘の夫)と赤ちゃんと3人で」
 「チャコ結婚して赤ちゃん出来たの?」
 「さっき来てたでしょ」 
 ケロッとして  「知りません」
 「うっそー 赤ちゃん泣いてたとき ママ君一生懸命あやしてたじゃない」

 一時間もたっていないのに全く覚えていない。

11  記憶喪失症 その二 

 今観ているテレビ画面に全く関係なく、突然
 「お母さんは?」 
 何処へいったのかを聞いている。30年前に亡くなられたのに…。

 いつもの事なので、無視すると
 「健二さんっ!  聞こえないんですか」
 「ん? うん聞こえないよ」
 「耳悪いの?」
 「悪い」
 「やっぱしね」
 「なんか用事やったの?」
 「忘れた」 
 今何を聞こうとしていたこと もう忘れている。

 私が、耳が悪くて聞こえなかったんだ。の返事にあっさり納得。

 これを、日に何回と無く繰り返している。
 「健二さんっ!」

 今も、隣の部屋でパソコンキーに触れながら原稿に熱中している私に、
 さも用事がありそうに厳しい声が飛んでくる。
 離れて見えていないことを好いことにして聞こえない振りして  無視。
 ご め ん

12  記憶喪失とは あほ とちがう 

 はじめてのとき
 同じことを何回も何回も繰り返して聞いてくるので、つい
 「うるさいな今言うたやろ 同じこと何回も聞かんとき」
 「聞いてません。今 初めてやから聞いてるんです」
 「何が初めてや あほ とちがうか」
 「私 あほ やもん」
 瞬間の表情に寂しさが走ったように見えた。

 しまった、えらいこと言うてしもうた。これは言うたらあかんことやった。
 「ごめん 泰子あほとちがう」
 それからは同じ質問に同じ返事、それで満足しているのですから 繰り返してます。

 記憶喪失症。妻の場合。
 今のこと、見えてることは理解できるので話は普通に通じる。
 しかし、話ていた内容はその場で消えてしまって記憶として残らない。
 過去の出来事も覚えていることは殆どない。
 だから会話はいつも、その場限り。今聞いたことを忘れて何回も繰り返し聞いてくる。

 脳出血で脳細胞の一部の記憶装置が破壊されたので、頭の中に記録しないらしい。
 勿論病気で倒れたときのことは全く知らないし、
 その後のことも今置かれている状況も全く知らない。

 古い事でも、こちらから水を向けると思い出すのか話に乗ってくる場合がある。
 ときどき、部分的に記憶が残ってるのか、そのことを自分から言い出すときがあります。
 それを、今のことのように話出すので聞いてる方がややこしくなります。
 がそれでどうだということでもないので、そのまま聞き流しています。

 娘時代のことは比較的思い出すようです。そして結婚当初のことも。
 自分の両親が亡くなられたことは憶えていない。私達がここ西浦町に移り住んだことも。
 ときどき「私家へ帰る」と云う、妻にとって家とは自分の生まれたところしか記憶にない。

 二人して築いた今の家のこと、理解出来ないので、時には私も寂しい気持ちになることがある。
 でもそれはそれとして、今ここが二人の家、この生活のより充実を図ってゆこうと思う。

13  記憶喪失は 幼児化現象 

 病気或いは年齢的に脳機能が衰えてる状態を一般に痴呆症とかぼけると云いますが、
 この言葉、嫌いです。

 だって あほ・ばか・ぼけと連なり、軽蔑語だからです。

 誰だって、日頃尊敬している父・母や夫が、そのような症状が現れたとき、
 ぼけたとは思いたくないものです。
 勿論その人たちには自覚症状がないのですからなおさら。

 なのに 健常人と同じように接するから会話がかみ合わない。
 ましてや 日頃は人一倍しっかりしていただけに話が通じない時、
 やはりこれをぼけと云うかと思うと、悲しさはたまらないものがあるはずです。

 時には、相手がその症状の病人であることを忘れて腹を立て、
 いけないとはわかっていてもつい
 「なんでこんなこと わからへんの」 って

 時には強い言葉を浴びせることさえもあります。悲しさを通り越してイライラ、
 度重なるとノイローゼにも。

 普通の人でも度忘れってあります。そんな時
 「あんた もうぼけたの」
 って言われたら誰だって反発します。

 脳に障害を受けるとその機能が幼児期まで後退するんですね、
 だから私、痴呆症って言葉に替えて、幼児化と云う言葉を使います。

 痴呆症の病人と云うより幼児化したんだと思うとかわいいものです。
 会話がかみ合わなくっても、幼児相手に喧嘩したって始まりませんよね。

 そうです、尊敬する父母がぼけ症状になったのではなく、
 幼児化したのだからいたわりましょうと思えば気楽につき合えるものです。

 言葉の置き換えだけで雰囲気もガラリとかわります。
 現実の変化に対応して処する発想の転換って必要です。

 お人形と添い寝して、意識が奇跡的に回復した私の妻
 無邪気な幼女のように毎日そのお人形とお話しています。





 病気になる前の妻は、和裁・洋裁はなんでもこなし、
編み物は師範格、お茶お花はもとより、調理士の免許、
運転免許は早くから、無線(ハム)の資格
そのうえ私が挑戦していたパソコンまで同じように挑戦していました。
文字どおりマルチママの名前を欲しいままにしていたのに…。
                    
 脳出血の手術がうまくいって命をとりとめたとき、
 よかった これで元通りの泰子に戻る 後遺症が残るなんて夢にも思わなかった。
 しかし日が経つにつれ回復が進まないので、もしかしたら の心配が現実になったのです。
 それが こんな最悪の形で残ろうとは。

 元気なときのマルチママ泰子は、私の良きパートナーでした。
 今無邪気な幼児のようになった泰子 私がしっかりガードする番です。

 毎日お人形や孫を相手に無心につき合っている、時には私も仲間入りしています。