5  妻が脳出血で倒れた
  昭和57年9月18日の朝、妻がトイレでうつ伏せになっていました。
  妻は日頃血圧が低いので夜の寝付きも悪いほうで、昨夜も何時まで起きていたのかはよく知りませんが、
  明け方にトイレに行く気配は感じていました。
 どのくらい時間が経ったのか覚えていません。私も尿意を覚えて目が醒めて横を見ると
  妻の姿が見えないので何処にいるのかなと思いつつトイレに行ったら、そこに…。
  「泰子どうしたの」
  って声をかけても返事がありません。抱き起こしたが眠ったままです。
  私の大声に目をさましてとんできた娘は、とっさに
  「パパ 動かしたらあかん すぐ救急車呼ばなきゃ」
  日頃は貧血気味なのでそれで気を失ったのかなくらいにしか思っていない私だったので、
  救急車とは大げさな そこまでの判断をしかねていたのです。
  駆けつけてきた救急隊員は、まだ状況がのみこめない私にはお構いなく、テキパキとした段取りで、
  「脳出血のようです」
  それを聞いても、どういうことかどうなるのか、の知識すら持っていない私でした。
  近くの救急病院に運び込まれましたがそこはごった返していて、暇がかかりそうです。
  とりあえず入院の手続きが要るので準備に家に引き返したとき、心配してのぞきにきてくださった
  親しくしている隣の奥さんから
  「救急病院では間に合わない すぐ大手病院に手配しなきゃ」
  とアドバイスを貰いました。
  救急病院では日赤病院に手配してくれました。転送された日赤病院では、
  土曜日の午後にもかかわらず直ちに手術することになりました。
  脳出血いうのは、私が思っているような簡単なことではない。
 一刻も早く手術をしないと命にかかわることなんだ、ということをはじめて知りました。
手  術
 手術を受けるにはいろいろと手続きがあるものです。その中で、
 本人の今までの経過そして親兄弟など肉親の経過も聞かれました。
 いざという時のために治療者として知っておく必要があるとのことでした。
 連絡を受けた泰子の姉兄弟、そして私の兄も駆けつけてくれました。
 手術中の赤ランプ、何時になったら消えるのか、それは長い長い時間でした。
 この間私は何を考えていたのかよく思い出せません。助かって欲しい、それだけを念じていたのです。
 やっとランプが消えた時は夜中になっていました。
 出てこられた主治医の話しによれば
 「脳内血腫があってそれを取り除く手術は成功したので心配は要らない
  今後のことは二〜三日経過を見ましょう」
 もう少しで手遅れになるところだった と。
 よかった 助かったんだ でも何故泰子がこんなことになったのだろう。
 頭を包帯でぐるぐる巻きにされて手術室から出てきた泰子は、そのまま集中治療室に入った。
 面会は出来ないので、不安でしたがその日は帰宅しました。
 翌日には意識も快復したのか私と娘を見てニッコリしながら何やら一言二言云ったようですが、
 よく聞き取れません。それでも意識が快復したと喜んだのです が…。
髄膜炎を併発
 手術から3日目、妻の手が勝手に動いて頭の手術跡に触り、
 そこからばい菌が入って髄膜炎を併発したことを知らされました。
 40度を越す高熱が一週間ほど続きました。その挙げ句、今度は全くの意識不明になったのです。
 意識不明というのは、目も開けない、呼んでも反応がない、勿論口も利けない、
 食事もしないのです。これを植物人間と云うのでしょうか。
 植物だって芽を出します。花も咲きます。呼びかけても応えないのは人間じゃないから当たり前。
 私は、意識不明の人間を反応を示さないからといって植物人間と云うのは嫌いです。
 いつまでこのような状態が続くのでしょうか。さすがの私も落ち込みました。 
 手術の翌日ニッコリ笑った泰子を見て、
 意識が戻ったらまた元通りの泰子になるんだと喜んだのもつかの間……
 意識不明のこの状態がいつまで続くのだろうか、元通りになるのだろうか? 
 集中治療室から個室に戻った妻に付き添って私は病院に泊まり込みました。
 完全看護なので必要はないのですが、いつか目を開けたときに私の顔を真っ先に見てほしかったからです。
 何日か経って妻は薄く目を開きました。よかった 意識が戻ったんだ
 「泰子 パパだよ 見える? 」
 表情が有りません。目は一方向に向いたままです。意識は戻っていないのです。
 私は、少しでも意識を取り戻してほしくって、日に何度となく呼びかけました。
 また反応を知るために、唇を重ねて舌を差し入れました。それでも知らん顔が続きました。
 何ヵ月経ったでしょうか、差し入れた私の舌に微かでしたが応えがあったような気がしました。
 いや確かにあったんです。その時は嬉しくってもう夢中で何度も何度も繰り返しました。
 微かながら妻の舌の動きを感じました。何かが伝わったのでしょうか。
 その後、徐々に徐々に薄紙を剥ぐようでしたが目も微かに動くようになりました。
 表情も出てきました。口も少し動いてスプーンから少しづつ飲み込むようになりました。
 が 言葉はまだです。
 それから二年余り寝たきり状態ですが少しづつは回復に向かってきました。
 でも意識は健常人に比べて何%かです。
機能回復訓練
 ベッドの上で手足を動かす訓練が始まりました。次いで歩行訓練もしました。
 寝たっきりにならないためです。
 しかし妻は自分から動く意思が全く働かないのです。自発能力が著しく減退しているのです。
 それに判断能力も減退しています。今自分が何故ここにこうしているのかわからないんです。
 病気だということはわかるんでしょうが、何故こうなっているのかわからない、
 わかろうともしていないようです。自発能力・判断能力とも減退と言うより皆無に近い状況です。
 歩行訓練には私も歩行器の横から励ましながら付いて歩きました。が、
 自分から足を前に出そうともしません。引きずられているだけです。しかも苦痛のようです。
 止めて貰いました。諦めざるを得ませんでした。
 離れたベッドの方からじゃんけんに誘われました。これは遅れながらもやっていました。
 勝ち負けは自分ではわからないんですが
 「泰子 勝ったよ」 というと嬉しそうでした。
退院そして自宅療養
 入院してから2年半が経った頃、退院の申し渡しがありました。
 意識はまだ半分も戻っていないのです。口は利けないし食事も自分で出来ない状態なんです。
 体も自分で動かせない寝たっきり、なのに退院とは。
 つまり 「もうこれ以上回復の見込みがない」 と宣告されたも同じことです。
 月日が経てば 年月を重ねれば回復するものとひたすら信じ、泣きたいときも涙をこらえ 
 つとめて笑顔を見せて来たのに…… プッツリです。
 
 近くのお寺の真っ暗な境内を歩きながら、今までのことがぐるぐると頭の中に浮かんできました。
 自然に涙がこみ上げてきました。こえらえていたのですが いつしか大声を上げて泣いていました。 
 堰が切れたのです。
 何故 何で どうしてどうして泰子が こんな目に合わなければいけないの…
 あれほど信心深かった泰子が 正直 神も仏も恨みました。
 これ以上治療しても回復の見込みの無い患者は病院には置けないのが原則のようです。
 そのような病人は家族が自宅で介護するか、療養専門の施設に移すかです。
 療養施設は完全介護してもらえるので、家族は差し入れか見舞うだけでいいのですが…。
 自宅介護は全てを家族が面倒を見なくてはなりません。
 いろんな状況を考えて私に果たしてやれるだろうか、随分悩みました、が娘が励ましてくれたんです。
 「ママを施設に入れて一人にしておくのかわいそう 家に連れて帰ろう
  二人でやれるよ やらなきゃ…」 
 自宅介護を決めてからは、主治医の先生や看護婦さんにしつこい程介護の手だてを習いました。
 昭和60・4・5 退院 2年7ヶ月ぶりです。もとの3人の生活に戻りました。 
 100%、24時間体制の介護が始まりました。
 先ず食事は流動食を時間をかけて一匙づつ口を開けさせて食べさせます。
 それがなかなか飲み込まないんです。
 自律神経も麻痺しているのか排泄は失禁状態なので其の都度始末します。
 体の清潔を保つのにはお風呂が一番です。
 ベッドで衣類を脱がせて、娘と二人でかかえて風呂場まで連れて行き、
 私が一緒に湯船につかって洗います。
 それがその度たいへんなのでいつのまにか間が遠のき、清拭で補うことが増えました。
 介護経験のないとき、着衣の着替えとシーツの交換は、寝たままでどうして出来るのか不思議でした。
 着衣の場合、どちらか一方の袖に腕を通して体を横にさせ、その下に身ごろを縦長に畳み込んで潜らせ、
 次に体を反転させて潜らせた身ごろを引っ張り出してもういっぽうの腕を通します。
 シーツの場合も同じように体を横にさせたり反転させたりでやれるんです。
 二人でやると簡単なのですが、慣れれば一人でもやれます。
平成元年11・18 娘結婚
 「二人でやらなきゃ」
 励ましてくれた娘は、その言葉通りどんな状態のときも嫌な顔もしないで
 実によく世話をしてくれました。
 私だけだったら馴れるまでにお手上げしていたかも知れません。その娘が結婚しました。
 そして  3・2・22 出産しました。
 幸いごく近くに住んでいるので助けてはくれますが、負担をかけないようにと思い
 殆ど私一人で妻を介護出来るようになりました。
 今では私も介護のプロ 誰にも引けをとりません。ただし妻のことについてだけですが。
 私が本格的に『主夫』をするようになったのはこれからです。
6  お人形と添い寝して
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| お人形を横にご機嫌です   |  | 
今度は ホントの赤ちゃん(孫)  | 
抱かせて貰った お人形さんも一緒  | 
 昭和60年4月、2年半の入院生活を終えて戻ってきた妻
 寝たっきり、おしゃべりはしない。手も動かない。
 食事も出来ないので鼻からの点滴。しかし、表情はいつも明るい。
 この明るさ今でも続いています。
 在宅介護 
 今では慣れましたが、
 主治医の先生や看護婦さんに処置の方法は教わりはしたものの、
 当初は手こずりました。
 食事は点滴に加えて少しでも口からがいいと一匙づつ介添えしです。
 なかなか飲み込まないので時間がかかります。
 体を拭いて着替えからシーツの交換、
 排泄の世話。
 これらを娘の手を借りながらやりました。
 その都度娘はいやがらず実によくやってくれました。
 「私のママだもの 当たり前」と。
 妻が帰ってきたとき、娘が子どもの頃に遊んでいた赤ちゃん大のお人形を
 「おかえり」
 と云ってベッドに一緒に寝かせたんです。
 そうしたら、そのお人形に向かって何やらブツブツ云ってるんです。
 また、寝かしつけるつもりなのか、
 頭をなでたりお布団をひっぱったりしています。
 いつのまにかそのブツブツが言葉になっていました。
 おしゃべりを始めたのです。手も動かしています。
 お人形を、本当の赤ちゃんに添い寝しているつもりで、
 自分が世話しなければという母性本能が目覚めたのでしょうか。
 私には奇跡に思えました。感動です。
 それからの回復には目を見張るものがありました。
 今では、寝たっきりはずーっとですが、
 両手とも殆ど普通に動くようになったので食事は自分で出来るし、
 会話も出来るようになりました。
 ただ記憶力の回復が乏しいので、
 今話している内容がその場から消えてゆくらしく話しがあちらこちらにとぶので、
 聞く方は戸惑いますが何も喋らないよりはましです。。
 自分がやらなければ という意欲が意識の回復に連なるのですね。
 お人形と赤ちゃんの区別は、今でも出来ないようです。
 今度は本当の赤ちゃん(初孫良太ん)とベッドを並べています。
 変化が見られました。
 たのしみです。