太 古 の 西 浦 町


西浦町の土を見ると、表土は普通の土であるが、
下には粒子の異る砂層が、幾條となく走っている。
また心土は青色粘土層で、ボーリング基礎工事の際によく見受ける。
稲荷山、深草山での粘土も同質のもので、
谷口町のケンカ山の粘土には貝の化石を混じ、
桃山ではハス、ヒシの実の化石が混じる。
京都盆地は、地質時代第三紀の終末(2〜3百万年前)、
琵琶湖などと同様に、瀬戸内東部の断層運動で陥没、
古大阪湾の海水が進入していたが、
その後の地殻隆起と後氷期の洪水が、
山々からの流失土砂を堆積してできた盆地である。
太古の石器人は、この深草の粘土を発見、縄文土器、弥生土器をつくり、
やがて専業の土師氏によって、須恵器、油杯など神撰具がつくられ、
太閤さんは伏見城の金瓦を、稲荷では土産の伏見人形を、
砥粉や色土の産業ともなり、京の名物、清水焼のルーツともなったのである。
また加茂川は、太閤さんが伏見城下町のために、
川筋を変えるまでは、西浦町に接して南下していた。
フチ町や竹田出橋はその頃の地名である。
この加茂川辺りの湿地帯に弥生人が水稲の耕作をした。
それが西浦弥生遺跡である。
このように、深草西浦は太古に関係があるので、
ご参考までに、古代史を勉強してみましょう。

1 古 生 代 (2〜5億年前)


この頃の日本は、全くの海底時代。
飛騨高原、九頭竜川上流で、
当時の生物「鎖珊瑚」「蜂巣珊瑚」の化石が出土する。

2 中 生 代 (7千万〜2億万年前)


中生代に入ると、海底が次第に隆起して、
日本はアジア大陸の東辺部となる。(古日本)
この期は、爬虫類全盛時代で、日本でも福島など各地で、
大陸の「首長竜」の化石が出土する。

3 第 三 紀 (200万〜7000万年前)


第三紀の終末に、アジア大陸の東南部は、地盤沈下が起こり、
日本は山頂を点々と残して海没する(瑞穂海)
京都盆地は、琵琶湖と共に、この紀に没落した。

4 洪 積 世 (1万〜200万年前)


洪積世の初、海没日本は、再び隆起して大陸と接続、日本海は内陸湖となる。
日本の西部には、往来した「ジャバ象」「インド象」の化石が、
北部にはシベリヤ「マンモス象」の化石が出土する。
この期には、四回の氷期と間氷期がある。
また、人類発生の期でもある。

5 第 一 氷 期 (57〜100万年前)


アフリカ南部で「猿人」の化石発見、
チンパンジーよりも、脳・歯・腰骨が進化している。

6 第 一 間 氷 期 (50〜57万年前)


「原人」属する「ジャバ直立猿人」「北京人」「ドイツハイデンベルグ人」の化石発見。
「原人」は、火を作り、石器を用いる最初の人類である。
日本でも、大分の早水台、栃木の星野に遺跡を発見した。

7 第 二 氷 期 (42〜50万年前)


日本で、兵庫の「明石人」栃木の「葛生人」を発見。

8 第 二 間 氷 期 (24〜42万年前)


九州南部の大陥没で、トカラ海峡ができ、
南方からの「ジャバ象」の往来が止り、
北方の「ナウマン象」のみの化 石が出土する。

9 第 三 氷 期 (18〜24万年前)


「旧人」に属する「ネアンタール人」が欧州で。
日本では、愛知で「牛川人」が発見された。
「旧人」は埋葬・狩猟の呪術など、精神生活を行う。

10 第 四 氷 期 (1〜12万年前)

この期の初め、地殻の変動で、朝鮮海峡、津軽海峡などができて、
内陸湖の日本海は大洋と通じ、日本は完全に孤島となった。
孤立した人類はじめ動植物は、順応して徐々に変化したが、
「小型アオモリ象」は「マンモス象」の退化とされている。
人類は、この期に「新人=ホモ、サピエンス」に属する「クロマニヨン」が。
日本では、静岡の「三ヶ日人」「浜北人」、
大分の「聖嶽人」、沖縄の「港川人」などが発見された。

「新人」は、石器の外に、魚骨器、貝器、木器などを用い、
精神生活も著しく進む。

11 後 氷 期 (8,000年〜2万年前)


この期は、沖積世であって、10万年もつづいた氷期が終り、
気候温暖、動植物とも生育旺盛。
この期の人類は、未だ洞窟や岩蔭に家族と住み、
毛皮をまとい、鋭利な黒曜石の刹製の石器を用い、
末期には簡単な土器も作った。

投槍と弓矢を考案し、犬を連れて狩猟をした。

京都では、ナイフ形石器が、嵯峨、大枝、岩倉などで、
小形尖頭器(矢鏃)が嵯峨で、木の葉形尖頭器と有経尖頭器(槍先)が、
上賀茂、東山清閑寺で発見された。

数万年の昔、吾々の祖先が、犬を連れて、
京都盆地を歩いていたことが想像できます。
西浦町にも来たことでしょう。

12 縄 文 時 代 (2,300年〜1万年前)


投槍と弓矢の発明につづいて、磨製石器で、樹の伐採や加工が進んだが、
土器は独自の縄文文様や装飾のものを造った。

縄文人は、洞窟を出て、堅穴住居を建て、血族で小集をつくり、共同作業をした。
末期には、簡単な畑作もしたようである。
貝塚は、集落のゴミ捨場で考古学の貴重資料である。

西浦町、谷口町でも、縄文土器片が発見された。

13 弥 生 時 代 (1,800〜2,300年前)


弥生時代の特徴は、水稲栽培と米を中心とする食生活に応じた土器の製作である。
弥生土器は、粘土が精撰されて薄手、焼成も硬く、煮炊 用の壺、貯蔵用の甕、
食事用の皿、鉢、高杯など実用中心である。

水稲は、中国から九州に入り、全国に普及し、今までの採取生活から、
生産生活に一大転換をしたのである。

水稲の普及は、瀬戸内を経て、近畿には約50年の速度、
東海、関東、東北には300年の速度であった。
鉄器と青銅器が、水稲とほゞ同時に移入され、
農具と武器に競って使用されたが、
階級社会が急速に進展した。

京都の弥生遺跡は、淀川桂川水域に多く、深草西浦や山科大臣遺跡は、
琵琶湖系とされている。
かくて、日本には100余の小国家ができ、その首長の墓が古墳時代である。
邪馬台女王の卑弥呼が立ち、崇神大王のとき、統一国家が成立した。
深草の古墳には、稲荷山仁明陵北方香神山などがある。

(本項は次の本を引用した京都市編京都の歴史・旺文社日本史)

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