町 内 自 治 会


西浦町は全くの新開地で、町内自治会も、全く無から発生した。

そんな関係で、西浦町自治会の歩を述べるに先立ち、
自治の原典に一寸だけふれてみましょう。

天地に陰陽有り、人間に男女がある。

男女は夫婦となり家庭を作って、子女を愛育する。

各家庭は、自衛のため、相集い集落を形成して、力を結集するとともに、
相互扶助の生活をする。学者はこれを「生物の集団本能」という。

人間の集落には、共通の幸福向上のため、
話し合いの集会と制度が生まれる、
やがて発展して、市町村、府県、国家、世界連邦となる。

隣保の効用については、
「向三軒両隣」「持ちつ持たれつ」「遠くの親類よりも近くの他人」

などの諺が単的に説明している。

1 西 浦 町 の 草 創 時 代

西浦町は、もと練兵場、終戦後の昭和21年には、一劃に市立農場があり、
翌23年には、全面が農地に改造され、開拓地として、
五戸の農家が入植したが住居が点在したため、
西浦町として纏めるよりも、最寄りの町内会に加入した。

即ち、松田氏兄弟は飯食町へ、不肖秋山はキトロ町へ、
吉田森田両氏はヲカヤ町であった。

斯様の状態は昭和38年、区画整理の時点まで、
実に15ヶ年も続いたのである。


2 市 政 協 力 委 員

昭和38年、区画整理で道路が完了した時点からボツボツと住宅が新築され、
39年には約20戸となった頃、
市の要請で市政協力委員を置くこととなり、不肖秋山が担当した。

41年には、勤労者分譲住宅を初め住宅が増えたので五名。

(秋山・吉岡・林・清水・杉本)に増加、43年には11名となり、
現在55年度は14名となっている。

因に、京都市の市政協力委員の制度は昭和28年に発足したが、
京都市独特の学区制とともに全国的にもユニークな制度とされている。


3 自 治 会 連 合 会 の 発 足

昭和44年には、公共機関では、法務局出張所、深草電話局の外に、
新たに伏見区役所深草支所、保健所支所、農協支所、公団団地も建ち、
居住戸数は約500戸となり、必然的に隣保の必要と、
「明るく楽しい町づくり」の願望から、
市政協力委員が中心となり再三の会合の結果、
昭和44・4・1を期して、未だ内定中の町名によって、
各丁毎に、町内自治会を結成することとなったのである。



初代自治会正副会長

一丁目  林 秀之助   沢 知子
二丁目  辻井 達雄   内田 健二
     (41年に内田会長で発足 4代目)
三丁目  川崎 留蔵   中田 孝英
四丁目  秋山松太郎   黒川林五郎
五丁目  松田 武雄   秋山 拓也
六丁目  清水 治郎   入江 浅次郎
七丁目  杉本 義憲   南  信雄
八丁目  辻 庄次郎   小室 尋司
分譲住宅組合  藤田  正   山内 孝夫


昭和44年・5・20に西浦町自治会連合会が発足したのであるが、
発足当時の事情がよくわかる文書が残っているので、
ここに、そのままを掲載します。

深草西浦地区自治会連合会結成御通知

本年4月、西浦町各丁に自治会が結成されましたことは、御同慶に存じます。

しかし、何分当地は新開地であるため、
道路交通、防火防犯、保健衛生、児童保育等々、町内共通の福祉には、
不備不満の点が多々ありますが、行政地区が、砂川、深草の両学区にまたがり、
また地区内には2〜3の住宅団地もありまして、
福祉向上には、お互に緊密な連絡を図ると共に、
住民の希望を結集し、協同的に行動せねば、
その実を挙げ難いので、過日来、数次にわたり、
自治会長の打合会を開き、別紙の通り、
自治会連合会を発足することとなりました。

この段御了承下されますと共に、
御協力のほどをお願い申上げる次第であります。


昭和44年5月20日
                各自治会長

世帯主 事業所各位

深草西浦地区自治会連合会規約

第1条 本会は深草西浦地区自治会連合会と称し、
深草西浦地区区画整理地域内の各町自治会と住宅団地の自治組織をもって構成し、
事務所を会長宅に置く。

第2条 本会は各自治会共通の福祉改善を協同して推進するのを目的とする。

第3条 本会に次の役員を置く。

会長  1名   本会を代表する
副会長 4名   会長事故時に代行する
会計  1名   会計を掌る
庶務  1名   庶務を掌る
監事  2名   会計監査
評議員 若干名  議案の審議及び提案

第4条 役員の選出は次の方法による。

会長は評議員中より評議員会に於いて定める。

副会長は評議員中より次のブロック別に各1名を定める。

砂川学区・深草学区・勤労者分譲住宅・住宅公団団地。

会計、庶務、監事は評議員中より評議員会に於いて定める。

評議員は自治会正副会長と市政協力委員を当てる。

第5条 役員の任期は1年とし、再任を妨げない。

第6条 本会の業務は評議員会の議決によって行う。

評議員会は次の通り 常例評議員会年1回、会長招集し、事業報告と決算、
事業計画と予算、人事、規約改正を付議する。

臨時評議員会 随時、評議員の申出により会長招集し緊急案件を協議する。

第7条 本会の経費は自治会の分担金と寄付金及び雑収入による。

第8条 本会の会計年度は4月1日とする。

付 則 本規約は昭和44年5月1日より実施する。


▼ 初代役員

会 長  秋山 松太郎
副会長  清水 治郎(深草) 内田 健二(砂川)
    藤田 正(勤労者分譲住宅) 欠(公団団地)
会計 清水 治郎    庶務 内田 健二
監事 吉岡彦太郎  加藤 敏
評議員 自治会正副会長と市政協力委員 計22名


▼ 昭和44年度予算
収 入  6万円
分担金  6万円  月10円 500戸分
寄付金   0   雑収入   0
支 出  6万円   事務費 2.5万円  印刷費
会議費 1.5万円  常会及打合会
交渉費 1万円   交通費
予備費 1万円


▼ 主事業と担当
1、区画整理事業の促進   秋山 松太郎
2、道路舗装の促進と撒水  内田  健二
3、側溝の清掃と雑草刈り  辻  庄次郎
4、防犯モデル地区対処   林  秀之助
5、公園愛護会の結成    川崎  留蔵
6、郵便ポスト誘致     清水  治郎
7、親睦会         黒川 林五郎

4 各 種 団 体 と 町 委 員

西浦町は、砂川と深草の両学区にまたがり、
それぞれに同様の各種団体がある。

(委員名は55年現在)


◎ブロック委員を置く団体

自治会連合会
砂川学区 内田 健二(二丁目)
深草学区 松田 好民(五丁目)

民生児童委員会
一丁目担当    丹治 千鶴子(一丁目)
二〜四丁目担当  内田 健二 (二丁目)
深草西浦住宅担当 川島 幾太郎(ヲガヤ)
五〜六丁目担当  豊田 好一 (六丁目)
七丁目担当    森田 佳子 (西浦住宅)
八丁目担当    津知キヨ子 (八丁目)

保護司会
砂川学区 井出 時一 (四丁目)
深草学区 寺内 貞次 (飯食町)

婦人会
砂川学区 小寺 ます子(四丁目)
深草学区 伊藤  令 (五丁目)


老人クラブ
砂川学区 秋山 松太郎(四丁目)
深草学区 前田 憲克(七丁目)


◎ 町委員を置く団体
市政協力委員会・保健協議会・少年補導委員会
体育振興委員会・防火委員会・交通安全推進委員会
育友会実行委員会・教育後援会・防犯連絡所


◎ その他の団体
藤森神社氏子総代・奉賛会・平安講社
共同募金委員会・日赤奉仕団・血液友愛会
母子福祉会・老人福祉員会・遺族会・傷痍軍人会
身体障害者会・納税協会・消防分団
ボーイスカウト分団

5 自 治 会 の 事 業

自治会の仕事は、前記各種団体の末端組織として、
防火防犯・環境衛生・少年補導・交通安全。

・保健体育・親睦娯楽・慶弔助合・社寺奉賛。

・団体費負担など案外と仕事は多いが、
何んと言っても町内親睦が最優先、
従って地蔵盆・リクレーション・スポーツが最大行事である。

〔地蔵盆〕 44年に自治会が発足、最初に手がけた行事が地蔵盆であった。

地蔵盆は、京都千年の歴史が育てた伝統行事、
各町ごとで、行う点は、全国的に珍しい行事である。

西浦町は全くの新興地、インテリ層の新婚家庭や無宗教者も多く、
また信奉宗教も様々なので、意見の多いのは当然ではあるが、
結果は意外にも、すんなりと纏った。

いつの時代でも、子を思う親心は強いもの、
その親もまた故里への郷愁を抱いている、
この子のために、楽しい思い出の故里であって慾しいと願わぬ親はないでしょう。

歌の文句じゃないけれど、誰か故郷を思わざるです。

そうは言っても、一寸した出来事もあった。創価学会の信奉者が、
当日、子をなだめすかして遠足などに連れて行く、
こんな気の毒なこともあったが、その後学会の方針が変わったのか、
今は親子もろ共、積極的に参加し奉仕されている。

さて、地蔵盆をするのに肝心のお地蔵さんがない、
各町はそれぞれ壬生寺などから拝借した始末。

四丁目では、泉涌寺に伺った所、幸いに無償で丁戴したが、
古い地蔵さんで目鼻がない、町内の絵の先生石川さんに化粧して戴いた、
今でも祭っている。

最初の地蔵盆は、準備が大変であった。

祭壇から子供提灯、やぐらの組立など、町内挙げての奉仕、
御陰様で昼は西瓜割りや冷し飴で子供は大喜び、
夜はのど自慢やビールで盆おどり晩くまで踊りはやまなかった。

いつの時代でも、お祭りの好きな国民です。

46年、四丁目で地蔵祠建立の議がまとまり、
募金には町内婦人連が、出入の商店から加藤婦人会長まで奔走、
たちまち38万余円が集り、写真の如き立派な御堂が竣工した。

開眼供養には、町内は勿論西浦町各町の役員、
加藤つる市議も出席子供らに祝詞まで戴いた。

地蔵堂建立は西浦町では初めてのこと、
金の面、場所の面など成否の見通しがつきかねたが、
町内一同の熱意と、三上丈夫会長の腹芸、
村岸義春氏の建設奉仕により目出度く完成したのである。

公園内に地蔵堂を建立するについても、一寸したエピソートがある。

先ず市に相談した所、公園は中央の所管、
先例もないとて一度は断られたが再三交渉の結果、
児童公園に児童の守り本尊の地蔵さんのことでもあり、
公園愛護会長の申出でもあるので目をつぶっているが、
無許可設置については、一応黙って始末書をとる。

次いで何時でも即時立退く誓約書を入れること、
こんな手順で、天下御免堂々と建立した次第。

大岡政談ではないが、形と実、誰一人として傷つくこともなく、
万事順調に完成したのは、真に「南無地蔵大菩薩」の御加護である。

「チビッ子広場」の提唱者富井市長も地下で、
さぞかし喜んでいることでしょう。



西浦町に初めての地蔵堂 4丁目 46.8.23

の町内でも建立については色々といきさつはあったでしょうが、
四丁目の先例もあり自由に公園内に設置した。

一丁目では、不幸にも交通事故で、
愛児を亡くされた東条さんの寄付で建立されたそうである。

お子様の御冥福を祈ってやみません。

地蔵盆には付随する「盆おどり」は、町単独から隣りの町と組み、
やがては学区単位でも催されたが、
51年から連合会主催の「盆おどり大会」となり、
53年には「西浦夏まつり」と改名、
スポンサーによる「うちわ」が配布され、
六丁目の猿若加沙師匠とお弟子連の揃ユカタ、
さすがはプロの踊りと人目をひき、踊り心をあおったものである。

54年からは、夜店が並び大舞台にはバンドやカラオケも入り、
幼児のドラエモンも出るなど、踊りの輪も二重三重、
中央公園は人の波、近隣では一寸類のない盛況に発展している。

「踊り見も 調子に合す うちわ風」     松甫

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