公 共 施 設 集 ま る


38年に区画整理工事が開始、
工事進渉中の39年には仮換地指定があって、
自分の土地の位置と面積が、判明した時点から、
急に注目を集め、土地の売買も活発、家屋の建築もボツボツと始まった。

41年に勤労者分譲住宅が建ち、
43年には法務局出張所が移転してきて、
これに従う司法書士事務所が、土地を物色したので、
地価が上がったともいわれる。

次いで深草電話局が建ち伏見区役所深草支所、
農協などが移って来た、住宅公団や西浦住宅、
メゾン深草などの高層住宅も建ち、西浦郵便局も新設されて、
新しい市街地が形成された。

1 町内にできた施設

開 設 年
 名      称 
 所  在  地 
備 考
昭和40
中芳青果卸市場
四丁目
飯食町から
昭和40
深草ヨハネ教会
四丁目
聖イエス会
昭和41
西浦勤労者分譲住宅
七丁目
四階建112戸
昭和42
安立整形外科
四丁目
  
昭和43
西浦中公園
三丁目
公衆便所・ちびっこプールあり
昭和43
京都地方法務局伏見出張所
四丁目
伏見区三栖から
昭和43
深草電話局
五丁目
641・642・643局
昭和43
辻産婦人科
一丁目
産婦人科・泌尿器科・性病科
昭和44
住宅公団深草市街地住宅
六丁目
七階建150戸
昭和44
深草総合庁舎
六丁目
公団住宅一階
昭和44
伏見区役所深草支所
直違橋三丁目から
  
昭和44
伏見保健所深草支所
九丁目から
  
昭和44
市民ホール    
昭和44
関西電力稲荷変電所
三丁目
無人
昭和44
市農協伏見支店
五丁目
直違橋三丁目から
昭和44
砂川西公園
一丁目
  
昭和44
深草西公園
八丁目
消防地下水槽あり
昭和44
大村歯科
四丁目
  
昭和44
西浦町自治会連合会事務所
四丁目
秋山会長宅
昭和45
切手類売捌所    
昭和45
戸嶋文具店
六丁目
ポストは支所前
昭和45
龍大生協組合
四丁目
ポストは龍大正門前
昭和45
龍大西浦女子寮
二丁目
五階建
昭和45
谷田医院
三丁目
内・外・皮膚・泌尿器・X線科
昭和45
亀井医院
六丁目
小児科・内科
昭和45
砂川東児童公園
四丁目
  
昭和45
深草東児童公園
五丁目
  
昭和46
龍大体育館
三丁目
  
昭和46
高橋獣医科病院
八丁目
小動物
昭和46
深草南公園
小森町
伏見区記念の森あり
昭和46
市立区民記念の森
小森町
深草南公園内
昭和46
町内地蔵堂
四丁目
砂川東児童公園内(つづいて各町内
昭和47
龍大学友会館
四丁目
学生生活協同組合あり
昭和47
深草食品センター
二丁目
8店舗
昭和48
切手類売捌所 桂化粧店
七丁目
ポストは中公園
昭和48
林米穀店
一丁目
ポストは店前
昭和48
マイショップ深草店
八丁目
食品スーパー
昭和49
深草西浦住宅
二丁目
11階241戸
昭和49
村尾医院
一丁目
内科・小児科・放射線科
昭和49
柴田歯科
七丁目
  
昭和50
チビッコプール
三丁目
中公園内
昭和50
伏見西浦郵便局
六丁目
  
昭和51
龍大紫明館
四丁目
学生サークル
昭和51
メゾン深草
四丁目
7階建96戸6店4事務所
昭和52
切手類売捌所法務局内
四丁目
ポストなし
昭和52
京都農民会館
五丁目
日本農民組合
昭和53
京都中央信用金庫竹田支店
一丁目
  
昭和54
うずらの里児童館
三丁目
辻コーポ内
昭和54
西浦町集会所
三丁目
うずらの里児童館内
昭和54
消防地下水槽
八丁目
深草西公園内
昭和55
下水道完備
全 町
52年着工
昭和55
宮越医院
四丁目
内科・泌尿器科

2 付 近 の 施 設

開 設 年
名   称
所在地
備   考
 明治 6市立深草小学校西伊達町児童数1320
 明治22深草警察官派出所直違橋三  
 大正12山亀青果卸市場綿森町  
 昭和12市立砂川小学校ススハキ町児童数1340
 昭和22青風幼稚園池の内町園児数340
 昭和22丸都青果卸市場堀田町  
 昭和24市立藤森中学校池の内町生徒数1500
 昭和24市立深草中学校西伊達町生徒数1050
 昭和36龍谷大学塚本町学生数8800
 昭和44市立青少年科学センター池の内町  
 昭和50関西相互銀行藤森支店堀田町ローズマンション一階
 昭和51ダイエー藤の森店キトロ町  
 昭和53ローズマンションキトロ町  
 昭和53京阪藤の森ビル塚田町京阪タクシー本社
 昭和53京都南社会保健事務所堀田町京阪ビル内
 昭和53京都府民信金伏見支店ヲカヤ町社寺信金と合併
 昭和53京都府自家用自動車協会ヲカヤ町  

3 交 通 機 関

市バス「竹田街道」

系 統
 区   間 
開通年度
 停   車 
 81 京都駅−中書島・横大路行45・12
  
 82 横大路−河原町廻り50・12
竹田久保町・竹田出橋・龍大前通
 83 京都駅−稲荷行46・4
竹田久保町・綿森町・高速道路通
 57C 八条口−国立病院 醍醐行47・1
竹田出橋・藤森


市バス「師団街道」

系 統
 区   間 
開通年度
 停   車 
 56 四条−桃山南、醍醐行38・5
綿森町・深草西浦町(50・1飯食町を改名)藤森


市バス「第2軍道」

 系 統 
 区   間 
開通年度
 停   車 
16南行壬生−東山通−藤森神社行39・11
綿森町・深草西浦町(50・1新設)・聖母学院前
16北行壬生−東山通−藤森神社行39・11
藤森・深草西浦町・聖母学院前


京阪バス

系 統
 区  間 
開通年度
 停   車 
奈良行き−奈良行き37・7
砂川小学校前・京阪藤森駅前


近鉄バス

系 統
 区  間 
開通年度
 停   車 
奈良行き−奈良行き28
稲荷・藤森(市内間は乗降禁止)


名神高速バス

系 統
 区  間 
開通年度
 停   車 
奈良行き−高速道路39・9
深草


京阪電車

系 統
 区  間 
開通年度
 停   車 
普通列車大津−大阪明治43・4
藤森(20年までは師団前)・深草


市電伏見線

系 統
 区  間 
開通年度−廃止年度
 停   車 
伏見線稲荷−丹波橋明治28・2日本最初の市電で開通、昭和45・12廃止
竹田久保町(20年までは練兵場前)・竹田出橋

4 深 草 合 同 庁 舎



深草総合庁舎と公団マンション


西浦町六丁目にある深草合同庁舎には、
伏見区役所深草支所、伏見保健所深草支所と市民ホールがある。

昭和42年、当時の富井市長がわざわざ現地視察をして決定、
その年に着工、44・4に移転開所した。

支所移転のいきさつについては、
区役所支所は、当時直違橋三丁目、現警察官派出所の北隣にあった、
深草村時代の村役場、木造二階建の小さい洋館に、
農協と同居し混雑を極めていた。

保健所支所は、第1軍道疎水砂川橋東詰めの、
民家を借り、お座敷を診療室とした真にお粗末な状態。

両所ともに早急に移転せねばならぬ運命にあった。

偶々、西浦町の区画整理があり、
その保留地に新築移転ができたわけである。

この保留地も、支所移転用として初めから確保したものではなく、
名神高速バスストップ前の商業区として計画された土地であったが、
高速バスが予期に反して低調、商業区の必要もなくなった時点であった。

真に時と地に利があったわけである。

この合同庁舎には幾つかの特色がある。

その1 「下駄ばきお役所」のこと
7階建のアパートの一階がお役所、こんな役所は、
京都では最初とか、当時の役所は門番でも立つ、
堅い役所の時代、古い殻を思いきり脱ぎ棄てたやり方は、
時の流れ、民主化の変貌とはいえ、
さすが社会主義を標榜して立候補した富井市長の大英断。

その後10数年をへた今、「下駄ばき」どころか、
「間借り支所」が増えつつあり、
富井市長の先見の明には感服する。

専門が眼科のせいか中々お目が高い。

その2 市と住宅公団のコンビ
住宅公団は当時「家は建てたし土地はなし」の時代、
市から格安の土地(1615u)の斡旋を受けて大喜び、
地下1階地上7階のアパート(住宅公団深草市街地住宅)を建築、
その一階全部(1286u)を市の注文通りに施工した。

建築費は、10年年賦、今は消却を完了して完全な市有財産である。

因に、第二棟の土地は市有地で賃貸借である。

その3 市民ホール
この合同庁舎には玄関が2つある。

南玄関は一般市民の窓口、北玄関は市民ホールの玄関である。

市民ホールは、支所とは間仕切って大小3つのホールと便所がある。

新築披露の席上、富井市長は「新しい企画として、市民ホールを併設しました。

広くはないが折角ですから気楽に利用して欲しい」との挨拶、
この新しいアイデアに、ここにも民主化の実践をみせられて、
大いに感動したものでした。

所が、年が流れ人が代わると、支所のお偉方さえ、
会議室だから市民の集会には貸せないと断られてもめた先例もある。

北玄関の看板は、初めからはっきりと市民ホールと掲ぐべきであった。

西浦町は地元の関係で、このホールには永い間ご厄介になりました。

また、今後も何かと利用させて戴きたいと思っていますが、
支所の事務増加のせいか、近頃どうも敷居が高い。

そんなこともあって、昨年取りあえず、西浦町集会所ができました。

市民ホールの将来については、支所の事務増加もあることから、
移転要望の声が、高くなっている。

合同庁舎のように、老人クラブ、婦人会等の合同ホールが出来ると良いですね。

天国の富井市長さん、チビッコ広場の市長さん、よろしく頼みます。

5 区 民 記 念 の 森

西浦町は、公園と道路には恵まれた町である。

公園緑地は7ヶ所、その面積は実に30,000uに及ぶ、
緑地地区を解除して区画整理をした関係である。

高速道路沿いの緑地帯にある深草南公園では
「伏見区民記念の森」が、
46年から始まっている。



西浦町公園の伏見区記念の森


これは京都市の緑化百万本植樹運動の一環事業
市民の森=円山公園・宝ヶ池公園・鳥羽離宮公園の三ヶ所
区民記念の森=各区に一ヶ所
趣旨は、出生・入学・卒業・就職・結婚などの記念を希望する者が、
一口千円を献金、これを集めて毎年何本かの記念植樹をする仕組である。

公園入口の「献木者名札標」によると、
46〜55の10年間に316人、多い年で73人、
少ない年で27人である。

樹種は、桜・松・欅・楓の外につつじ・さつき等の記念樹にふさわしくない樹種もある
記念の森のある公園を一見すると、どこが記念の森で、
どれが自分の記念樹かさっぱりわからない。

願わくば、1〜2本だけでも年標が欲しい。

大きく成長した記念樹の肌を撫でながら、
そぞろ過ぎし日の思い出にひたるようにしてあげたいものである。

因に、隣のバスストップ広場は「みどりの広場」として改造し、
シーズンには植木市なども出る。

なお、続きの緑地帯、竹田街道寄りの「失対の溜り場」は、
時として廃材などを山積して、甚だ見苦しい。

区画整理の計画通り、隣の養豚場との関係もあり、
一日も早く植樹を要望する声が高い。

6 法 務 局

正式の名は京都地方法務局伏見出張所。

西浦町の公共機関としては最も早く43年に四丁目に新築移転してきた。

もと、伏見東浜町の旧憲兵隊の古い小さい建物を利用していたが、
西浦町に官有地ができたので、移転の運びとなった。

移転が知れると、法務局に依存する司法書士事務所・測量事務所が、
一斉に新庁舎付近の土地、家屋を物色した。

おかげで西浦町の地価を高めたといわれる。

7 龍 谷 大 学

龍谷大学は、西浦町の北に接する深草塚本町、旧陸軍兵器支廠跡にあり、
西浦町にも二丁目に女子学生寮、三丁目に体育館、
四丁目に学友会館(学生生協)、紫明館(学生サークル)がある。

龍谷大学は、西本願寺の経営、寛永16年に13世良如上人が、
宗門の人材養成の目的で、西本願寺の西南隅に創設、
大教校と名付けたが、後に仏教大学と改名、大正11年さらに、
本願寺の山号である谷龍(おおたに)の字画から龍谷とした。

旧校舎は、明治12年のルネッサン風の豪華建築、
図書館は4階建、蔵書は、東洋哲学、宗教原典など、
実に30万冊に及ぶと。

昭和35年、深草の旧陸軍兵器支廠跡南半分の払い下げをうけ
(北半分は京都府警察学校)、新築校舎一棟と旧兵舎を教室に利用して、
翌36年、龍谷大学深草学舎の名で開校した。

その後、年々校舎を増築し、現在は第17号館まで、
55年には、総合研究棟(紫英館)も竣工、
また、5万3千uもの大運動場も整備された。

学部は、文・法・経・経営科、短大部には、仏教・社会福祉科がある。

学生数は、一時1万人以上もあったが、
厳選方針で現在は8,800人。

本願寺にある旧校舎は、文学部研究室に使用中。

龍谷大学は今や内外ともに、一大有名校である。

ところで、西浦町は、あたかも学園前の景観を呈し、
学生下宿、女子学生のレディハウス、書店、文房具、コピー店も多く、
スナック喫茶に至っては、実に百軒を越す有様、
パチンコ、麻雀にもこと欠かず、
電柱には「学生ローン」の貼紙も多い。

午後には、三々五々の学生連、夕刻ともなると、
柔道着の男生、跣の女子学生が
「ファイトファイト」の掛声も勇ましく町内をトレーニング。

学園祭、講演会のポスターや案内が、
町内まで届き、時には学生運動のビラも入る。

西浦町は、今や学生街である。

幸いに町民とのトラブルは一度も聞かない、
宗教学校のせいであろう。



龍谷大学 背景は稲荷山 昭和55年

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