終 戦 後 の 練 兵 場

1 太 平 洋 戦 争 と 戦 後

昭和20年終戦、練兵場は進駐軍に接収される
昭和21年接収解除、京都市が農場を設ける
昭和22年農場事務所新築
昭和23年農地造成工事
昭和24年町名を西浦町と制定、農地払下。秋山、森田、吉田氏居住
昭和25年松田氏兄弟居住、ジェーン台風、進駐軍アンテナ建設
昭和26年上賀茂農繁宿舎建つ
昭和27年市農場廃止
昭和30年アンテナ撤去
昭和31年一面の水田地帯となる
昭和32年弥生遺跡発掘調査始まる
昭和33年名神高速道路の工事始まる。(39年開通)
昭和34年丸善自動車学校開設
昭和37年区画整理工事始まる。(45年完了)


終戦後の練兵場を書くにあたり、
関係のある太平洋戦争と戦後のの状況を略記するが、
戦争の思い出は、悲痛そのもので、書く筆もふるえる。

昭和16年−対米英宣戦、真珠湾奇襲、マレー半島上陸、
香港占領、日独伊協定延期、米穀通帳制、業種統制、組常会組織、
小学校を国民学校に改正。

挙国戦時体勢、「贅沢は敵」の標語、
「月月火水木金金」の歌が流行する。

17年−マニラ、シンガポール、ジャバ、ラングーン、など占領、
ニューギニヤ、ビルマに戦線を拡大。

B29の本土初空襲があり国民は大本営発表に不信つのる。

ミッドウェー海戦での日本大敗を境に米反攻に転ずる。

食塩配給制、衣料切符制、燈火管制。

関門トンネル開通し「勘太郎月夜」が流行する。

18年−山本五十六司令官ソロモンにて戦死、ガダルカナル作戦、
インパール作戦ともに失敗、アッツ島、マキン、タラワ島など全滅。

学徒出陣、軍需徴用、ガソリンの切符制。

「欲しがりません勝つまでは」が流行語となり、
空地菜園が普及する。

19年−マリアナ海戦で日本空母の大半を失ふ、
マーシャル、サイパン、レイテ島(京都師団)など全滅、
本土決 戦体勢に入り、
学校授業延期、中学以上の学徒動員、
疎開命令、防空壕建造、竹槍訓練、人間魚雷「回天」誕生、
砂糖配給停止、五銭十銭の小額紙幣登場、雑炊食堂が現れ、
「同期の桜」が流行する。

20年−日本敗戦、開闢以来の大変動。

ドイツ、イタリア降伏、ムッソリーニ処刑、ヒットラー自殺、
東京ほか大都市空襲され焼野原、4月沖縄上陸、
8月広島長崎に世界最初の原爆、死者20数万、
ソ連宣 戦し満州に進攻、14日ついにポッダム宣言受諾、
、 15日無条件降伏の玉音放送、宮城広場では国民号泣、割腹するものがあり、
近衛前首相 阿南陸相ら自決するもの少なからず、二八日占領軍上陸、
30日マッカーサー司令官厚木に到着、
総司令部(GHQ)を開設、
9月3日ミズリー艦上で降伏調印、軍施設接収、武装解除、東条ら戦犯逮捕、
徳田ら政治犯3千人釈放、
五大改革指令(男女同権、労働者団結権、教育自由化、経済自由化、専制廃止)、
財閥解体、自作農主義の農地改革、財産税など指令。

ヤミ市場現れ、ヤミ米買出しつヾく。外地から復員軍人、引揚者つヾく。

中国の邦人3百万は、
蒋介石の「暴に報ゆるに徳を以てせよ」の全国通電により無事帰国。

21年−人間天皇宣言、農地改革実施、田の中で自殺する 地主もあった。

旧円封鎖、主食欠乏し大豆粕など配給、藷づる水飩で餓をしのぐ、
戦災孤児青ぶくれの栄養失調が巷に満つ、
ヤミを拒否して餓死した正義の判事さんも出た。

天皇は憂慮して食糧危機突破の激励放送、
またマッカーサーを訪問して
「自分はどうなってもよいから国民を餓死から救って」と懇願する。

学校給食はじまる。「リンゴの歌」が流行しいささかの希望をあたえる。

22年−GHQ軍携行食糧を配給、供米の強権発動を指令、
片山連立内閣生る、学校633制男女共学、
農業会を農業協同組合に、新戸籍法実施。

23年−新生高校大学発足教育委員会PTA、
農業改良普 及4H生れる、東条ら七戦犯処刑、
新興宗教盛んにおこり、「東京ブギウギ」流行。

24年−野菜自由販売となり暗い統制に一縷の光明、
マッカーサー帰国命令を拒否、
ソ連引揚第一船舞鶴に着き涙の対面、
湯川博士ノーベル賞を受け敗戦国民母国を見なおす。

中共成立し国府台湾へ移り二つの中国となる。美空ひばりがデビューする。

25年−朝鮮戦争起こる。

国内の景気上昇。千円札発行、
警察予備隊発足、煙草自 由販売。

「ジェーン」台風関西をあらす。 金閣寺、京都駅全焼する。

26年−マッカーサー罷免、
講話条約調印、公職追放解除。

2 京 都 市 農 場

深草練兵場は、昭和20年8月の終戦で、
他の軍施設と共に進駐軍の占領下にはいたが、
間もなく返還された。

当時の練兵場は、周囲は付近住民の家庭菜園、
中央部は軍の爆発物や危険薬品類の処理場、
塵埃の捨場なり、一面に雑草が繁っていた。

京都市は当時の餓死寸前の食糧事情に対処する緊急事業として、
昭和21年ここ練兵場と吉祥院新田に農場を設けた。

練兵場の農場は、東側にあった軍の馬草倉庫を詰所として、
その附近約7町歩を開墾、
主として南金はぜの苗(油脂植物)甘藷苗の生産配給に着手した。

翌22年には、農場事務所を新築(木造平屋トタン葺40坪、
現深草電話局付近)市職員数名が常勤した。

たまたま担任の技師が、愛知園芸試験場長に転出したため、
後任に不肖秋山が任命された。

昭和24年には財政上の理由で、農場閉鎖の議が出たが、
農業関係議員が、存続の必要を主張した結果、
市直営を独立採算制の委託経営に切りかえて続行することとなり、
委託経営者に不肖秋山が指名された。

昭和27年に至り食糧事情もやや緩和し、
農場初期の目的も達成したので、
農場は廃止することとなった。

農場の土地は官有地であったので、
国に返還し、改めて地元農家に配分払下げ、
委託経営者は開拓農家として入植することになった。

市農場の期間は、僅かに6ヶ年、
餓死寸前の食糧事情の時、当時としては斬新な、
夜間余剰電力利用の電熱温床で、
多量の苗を生産配給しつつあったが、
25年9月のジェーン台風で大被害、
600坪もあるトタン張りの大馬草倉庫は、
一瞬にして倒壊、トタンは木の葉の如く、
遠く平田町まで飛散した、
作物も施設も全滅、家畜は行え不明、
事務所も風がはいって屋根が飛び、
濡れた布団に家族が肩をよせて寝る惨状、
手伝いに来て呉れた隣の松田武雄さんは、
飛んできたトタンで手を負傷、大変に迷惑をかけた。

被害があまりにひどいので、一時は全く再起不能と思ったが、
人生の興廃はこの時と、奮起一番、昼夜兼行で復旧につとめた。

今にして思えば、よく危機を突破できたものだと感慨無量である。

3 農 地 造 成 と 払 下 げ

練兵場は終戦と同時に、進駐軍に接収されたが、間もなく返還され、
GHQ指令による自作農創設の農地改革に基き、
開拓地として払い下げることとなった。

よって、昭和23年、練兵場全域、約48町歩を農地に改造した。

設計は竹田街道を基準とし、中央縦横に農道、60間毎に小農道、
耕地は一区画を30間角の3反歩(30アール)とし、
潅漑水路を設けた。

潅漑水は、疎水をキトロ川に落し、途中で専用水路に入れ、
師団街道を湧出式暗渠で横断、湧水口で配水した。

排水路は、現八丁目で竹田街道を暗渠で横断、高瀬川に流した。

払い下げは昭和24年7月、
京都府告示で新町名を「深草西浦町一番地」と判定、
直ちに、払い下げに着手した。

払い下げ条件は、自作農創設特別措置法により、
開拓者個人に次の条件で売り渡した。

・ 開発は5年以内に完成すること
・ 定められた用途以外に利用しない事(農 地)
・ 他に転売、転貸は行わないこと
・ 防風林の規程を遵守すること
・ 右に違反したときは売渡を取消すことがある。
売渡価格は、坪1円80銭。

業務は、京都市が取扱い配分は次の通りであった。

東の中央部=市農場残置
東の北と南=上賀茂ゴルフ場代換地
北の中央部=山科地区
北の西=深草地区
地区の個人配分は農協の案によった。

当時、払い下げを積極的に希望する者は殆どなかった。

農協は、採種田とか実験田とかの名目で取得したが団体名では払下げを受けられないので、
農協の代表者の個人名で受けた、
所が、その後数年を経て、地価が上るに及び、
代表者が所有権を行使して売却したことから、
組合員と悶着となり結局、土地は払下げ取消、
代表者は農協役員は勿論、市政からも失脚する事件となった。

西浦町に珍しく、官有地が残っているが、
この事件の土地で、法務局伏見出張所、
市農協伏見支店、農民会館、安立病院の借地がそれである。

開墾については、何分41年もの間、馬や靴で踏み固めた土で、
「つるはし」で掘る有様、演習用の土盛りや水溝、石蓋の溝や礫の充満した暗渠、
また、終戦のどさくさに棄てた薬品や危険物、ガラすや空缶、それに軍施設の残り、
空地菜園や家畜小屋の立退交渉な武石浩波氏と搭乗機ど、
開墾は並大抵のの仕事ではなかった。



武石浩波氏と搭乗機ど、開墾は並大抵のの仕事ではなかった。




昭和25年頃の西浦町図

4 進 駐 軍 の ア ン テ ナ

練兵場跡地は、昭和24年農地として全部払下げ、
農家は開墾にかかろうとした矢先、翌25年突然、
進駐軍の通信部隊が、兵器廠跡(現龍谷大)に駐屯、
西浦町一円に、高いアンテナ柱を林立、地下ケーブルを縦横に埋設、
警備員が昼夜をわかたず巡視した。

農家には土地使用料が支給され、
農耕の立ち入りも自由であったが、
何しろ一本のアンテナには6本のワイヤー支線があるので、
耕作には不便、この状態がいつまで続くか、
お先真暗で手がつけられなかった。

三丁目町会長川崎留蔵さんは、当時の警備員の一人で、
事情を詳しく語ってくれました。

警備員の見張所は、森田さんの横、
アンテナに対する事故は殆どなく、
四季おりおりの風景が印象に残っている、
春は一望の若草夏はやかましい蛙の声、
秋は白鷺の大群、冬はつぐみ猟、
正月には松田氏の横の空地から、
遊覧ヘリコプターが発着、1人1500円で、
京都、琵琶湖の上空一周、たいへんに賑わったと。

外人部隊の駐屯で、深草界隈に、白黒の米兵の往来が目立ち、
一寸した異国情緒をかもした。

外人相手の貸間を改造するものも多く、
パンパン嬢の姿も見受けた。

住民とのいさかいは、殆ど聞かなかったが、ただ誰が蒔いたか、
練兵場の空地に、大麻が生育し、
麻薬取締官が活動したこともあった。

昭和30年から31年にかけて、
在日米軍削減の一環か、通信部隊は移動、
林立したアンテナは全部撤去された、
地下ケーブルはそのままであったが、
いつの間にか盗掘された。

アンテナの撤去で、農家はやっと、
自分の土地になった気分にかえり、
開墾にも耕作にも本腰が入り、
2〜3年後には、一応、見渡す限りの水田と化した。

しかし、全く生育せぬ所や、出来すぎて倒れる所など、
収量も品質も甚だ不良その後、
数年でやっと生育も均一となり、
米質も3等米ぐらいになった時、
区画整理事業が始って、又々、農耕不能となったのである。

5 名 神 高 速 道 路

西浦町の南端を通る名神高速自動車道路は、
日本最初のハイウエー、昭和33年10月山科で着工、
西浦町分は32年敷地買収、37年に工事終了、
39年9月に全線営業開始。

当時は話題の中心、何しろ工事費は百円紙幣を並べた位、
速力80キロ以上、トンネルの黄色の照明など全く驚きであった。

私はアメリカの国道2号線を、
シャトル−ロスアンゼルス間のバス旅行をしたことがあるが、
規模こそ名神高速は、こじんまりしているが、見事な整備、
技術日本の夜明けのような感じにうたれた。

この年、昭和39年は、東京オリンピックの年、
新幹線や羽田モノレールも開通、躍進日本の記念すべき年である。

京都でも、京都タワーや桃山城などが竣工した年である。

名神高速は有料のため、初めはトラックなどは敬遠していたが、
やがて長距離トラックは、ハイウエーの華、
僅々10年位で、投下資本を消却、事業としても大成功、
さすが外国資本家はお目が高い。

本来なら無料とすべき所、他に赤字路線もあるので、
当分の間は有料を継続すると。

西浦町分の用地面積は、16,700坪(約5・6HT)。

用地買収は前記の如く32年、
買収価格は213,000円であった。

名神高速の路線で、深草地区の分を見ると、
東から鞍ヶ谷町の射撃場跡、騎兵隊跡、糧秣部跡、
練兵場跡から竹田市営住宅を通っている。

何れも市に関係のある土地で、
買収に好都合の場所であることに気がつく。

次に、市中高架はコンクリートであるのに、
西浦町だけが、土盛りであることに奇意を感ずる。

これには次のようないきさつがあると言う。

西浦町は元練兵場、農地となってからも「緑地地域」に指定、
京都−伏見間では瓢箪のくびれの様な空地であったが、
附近が次第に市街化したため、
京都市は京都国際文化観光都市建設法に基き、
区画整理事業を計画したが、
「緑地解除」が先決問題(緑地地域の建ペイ率は10%)
そこで、たまたま計画中の名神高速道路と協調して・高架を土盛りとし、
道路斜面をも含めた西浦南公園緑 地帯と、巾二〇Mの道路を設ける。

・土もりの中央部には、京都の裏玄関となるバスストップを設ける。

・西浦町内に五ヶ所の公園を設ける。

この案で緑地が解除されたのである。

つまり、道路公団は、路線の用地確保に、
京都市は区画整理の遂行に、中央は国策の円満達成に、
大岡政談ではないが、「三方よろし」で一件落着したわけである。

しかし、盛土工事は、莫大な土の量、中の茶屋附近の山土を、
ダンプカーの行列で運び、ローラーで鎮圧した後、雨露にさらして沈める、
この繰り返しで工期は長くつづいた。

ダンプの道路では、住民がたまりかね、
谷口町などでは、通せんぼうのデモ騒ぎもあった。

「深草バスストップ」は京都の裏玄関、
地元西浦町は大発展するであろうと、
当て込んだ向きもあったが、
バスが京都駅へ乗り入れることになり、
今はただの中間駅、ひっそりとしている。

高速バスの営業は、当初競争がはげしく、
合同会社もでき、国鉄など四社が運行したが、
新幹線に客が流れたのか、
今は国鉄、日急の二社が細々と運行している。

だが東名高速が開通して以来、
ホテルがわりの夜行バスに人気が集中、
目下活気を取り戻し中。

土盛高架の斜面の美化については、
昭和45年万博開催を機に、
「つつじ」「さつき」などを植え、
蹴上水源地のようにと、
不肖私が連合会長の時、
池の内町の会長と相談、区役所を通じて、
道路公団に申し入れたところ、即刻承諾、
爾来、毎年美しい花が咲いている。

しかし、西浦町側は度々の土砂崩れがあり、
土留工事のため荒れている。

もう一度力をいれて、
一日も早く「花の名所」としたいものである。

その後、バス待合室や防音壁もできて、
バス客が風雨にさらされることもなく、
また、呉美の放棄や立小便のぶざまも全く無くなった。



昭和39年秋 名神高速道路バスストップを望む

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