師 団 と 練 兵 場 の 設 置

1 第 十 六 師 団

京都の陸軍施設としては、明治29年(1896)に、
歩兵第九聯隊(藤の森、現教育大)、練兵場と射撃場(万帖敷)が設置された。

超えて明治40年(1907)には国の軍拡政策により、
従来の13ヶ師が19ヶ師に拡張され、
その1ヶ師団が深草の地に決定、急ぎ用地買収が行われて、
翌41年には次の通り設置された。

第16師団司令部(田谷町現聖母学院)
騎兵第20聯隊(西伊達町現深草中学、市営住宅附近)
野砲兵第22聯隊(池の内町、現藤の森中学附近)
歩兵第38聯隊(元第9聯隊、現教育大)
輜重兵第16大隊(越後屋敷、現附属高校附近)
工兵第16大隊(讃岐町、現桃陵団地)
陸軍兵器廠京都支廠(塚本町、現龍大、警察学校)
第16師団糧秣部(堀田町、現丸都青果市場附近)
京都練兵場(現西浦町)
京都射撃場(鞍ヶ谷町)
京都衛戌病院(向畑町、現国立病院)
京都憲兵隊(鍵屋町現伏見税務署)
京都衛戌監獄(東伊達町)
師団の新設には、広大な用地が必要であるが、
農家は祖先伝来の良田を手放すので一大事である。

期せずして反対運動が起り、
農民は深草小学校に集合、
机や椅子を焼く騒ぎとなった、
幸いに石田吉左ヱ衛門村長の納得のゆく補償交渉で、
一人の検束者も出さずに鎮まった。

買収価格は、坪1円80銭から2円50銭、外に小作補償坪20銭であった。

用地買収については、深草村当局の労苦は想像に絶するものがあったと。

知事や部長からの圧力、御用商人や請負者からの脅迫に不安な日々を過し、
時には身をもって危うく暴漢の難をさけたこともあったと。

また、糧秣部用地3,500坪の買収では、
地主は地理的関係から坪2円50銭を強く主張したので、
陸軍省は土地収用令の発動を府参事会に諮問したが、
参事会は強力な陸軍にも屈することなく、
地主の主張を正当と認めた剛直な事件もあった。

これより先、明治29年万帖敷で練兵場用地五万坪を買収した時にも一騒動があった。

部長が地価の思惑を恐れて、村長と夜陰ひそかに提灯をつけて実測したことが、
村民の知るところとなり、
直違橋の西岸寺に集合、酒樽を抜いて気勢をあげた事件もあった。

しかし、土地を売った農家のうちには、すぐに借家を建てたが、
将校や下士官などの宿舎に引っ張り凧、却って喜ばれた。

かくて、永い間の静かな農村深草は、一躍軍都に早変わり、
朝は起床ラッパ、昼は午砲、軍靴や蹄鉄の音が巷を圧し、
入営除隊、面会人、御用商人、当番兵、馬丁などが往来し、
商店も軒を並べて賑った。

また、市電には「練兵場前」(今の竹田久保町)、
「営所前」(今の城南宮道)京阪電車にも「師団前」(今の藤森駅)ができた。

第9聯隊は日露戦争にも出動したが、あまり強い部隊ではなかったようで、
陰口に「またも負けたか9聯隊」とも言われたとか。

第16師団は、太平洋戦争には「垣兵団」の名で出動、
フィリッピンのルソン島に駐屯中、
昭和19年4月、レイテ島にてマッカーサー主力の北上を阻止せよとの命を受け、
兵団長牧野四郎中將以下18,608名は、8月までに配備についたが、
10月には米軍に上陸され、その後僅かに半年の間に、
レイテ島、サマール島の水際戦闘や密林戦で屍を山野にさらした数実に18,028、
生存者は僅か580名、
悲運極りない兵団となったのである。深草には悲しい遺族が多い。

レイテ島激戦の詳細は、京都新聞の長期連載「防人の詩」
(悲運の京都師団、レイテの死闘)に記述されているので御読み下さい。

留守部隊は、昭和20年8月終戦と共に、
進駐軍の占領下に入り、煙のやうに解体消滅した。

師団の存続期間は明治40年(1907)から昭和20年(1945)の38年間である。

2 京 都 練 兵 場



練 兵 場 の 配 置 図


西浦町全域は、昭和20年8月の終戦までは、16師団の練兵場であった。

正式の名は「陸軍京都練兵場」である。

一般には深草練兵場と呼んだが、本当の深草練兵場は万帖敷の方である。

京都練兵場は明治41年(1908)第16師団の新設のとき造られた。

当初の計画では、現深中の東に30万坪を予定していたが、
地元農民から良地を失うとの苦情が続出したため、急拠、現西浦の地に変更、
35万坪を買収したのである。

買収価格は坪1円80銭小作補償は坪20銭であった。

買収名簿が今も当時の村長宅に保存されていると。

練兵場の位置は、東は師団街道、西は竹田街道電車道、
南は長根寺川を経て野砲聯隊、
北は砂川を経て兵器廠、形はほゞ四角、一辺の長さ約1q(約9丁)、
周囲約4q(約1里)演習の尺度ともされた。

敷地の町名は、西浦町の町名の項で述べたように、
松本町、西浦町など六ヶ町の全域と綿森町、
キトロ町など九ヶ町の一部で、買収後の町名は「陸軍京都練兵場官有地無番地」である。

地勢は東高西低のほゞ平坦地であったが、東北部は約3Mの小高い茶畑、
削って西の低湿地を埋めて地均しをした。

排水は、周囲に溝を掘り内部には暗渠と明渠とを造った。

暗渠は巾、深さ共に1M、底に竹を敷き石礫をつめた。

今でも建築現場では現れる。

明渠は馬蹄や砲車に耐えるやう石積石蓋で、
石材は今も各所で見受ける。

練兵場の周囲は、溝を掘った土を盛って堤とし、枳穀を植えて生垣とした。

因に、枳穀生垣は、師団の各部隊で造られた。

今は聖母学院東北隅にある元師団長官舎に昔の面影を残している。

練兵場の模様は、図示の通りである。

〔練兵場正門〕 東側の中央にあった。正面道路は師団司令部に通ずる道、
今の第二軍道である。観兵式などには乗馬の師団長閣下が、
幕僚を従え威風堂々と歩を運んだメーンストリートである。

〔秣倉庫〕 正門の南に建坪約600坪、高さは二階建ぐらいの大きい倉庫、
丸太の掘っ立て、屋根も壁もトタン、戦時の応急馬草倉庫である。

終戦後は市立農場で使用中、昭和25年のジェーン台風で倒壊、
トタンは木の葉のやうに、現龍大あたりまで飛んだ。

〔貨車演習場〕 東南隅にあり、レールの上に貨物車、
プラットホームもあって、軍馬、砲車など軍需品の積卸しの演習場、
今は高速道路の下。

〔記念碑〕 貨車の西に大きな石碑があった。

台は石柱に鉄鎖のモールで囲った立派なものである、
松田氏の払下げ地内で私も見覚えがあるが、碑文は忘却した。

第16師団記念碑とか日露戦争記念碑とか、色々と言われるが、
設立や撤去のいきさつと共に一切不明である。

若しも御存じの方は、西浦町歴史資料としては貴重でありますので教えて下さい。

〔午砲台〕 南側ほぼ中央、野砲北門前で、
円形の小高い台地、毎日昼ともなれば、
士官の指揮する野砲一門が運び出され、
正午を期して号砲一発、京都市内にも達し、
軍隊は勿論、市民にも「ドーン」の愛称で親しまれた。

午砲は昭和13年廃止、跡地に第16師団記念碑が建立された、
西浦四丁目前会長の石川氏は軍国時代にこの建設に関与されたと。

撤去のいきさつは不明、跡地は高速道路の下となり、
懐かしいドーンの話しだけが老人から聞ける。

〔病馬廠〕南西隅の三心房墓地の東、
コンクリートの繋留柱が林立していた。

〔一本松〕練兵場のほゞ中央に、一抱えぐらいの老松が一本だけあった、
「練兵場の一本松」と呼ばれ、「砂川の一本松」と共に、地理や演習の目標とされた。

平安時代の遺跡「御所垣」江戸時代の岡田井水閘門跡地に残った老松のやうである。

この名物松も、昭和5年に飛行機の発着や気球観測に邪魔になるとて、
師団街道のポプラ並木、砂川堤の松と共に切り倒された。

〔障害演習場〕練兵場の西北部、溝や起伏を設けた野戦演習場。

〔便所〕東側北寄りに木造の長い便所があった。

私が見て珍しく感じたことは、便所の戸が必要にして最小限度、
使用中が一目瞭然、さすがは男ばかりの軍隊である。

でも、扉の全く無い中国の公衆便所よりはましだと思った思い出がある。

3 軍 道

師団街道から直違橋通りへ、
京阪電車と疎水とを立体交叉する道路が3本あるが、
北から第1、第2、第3軍道と呼ぶ。

明治41年第16師団新設の時、工兵第16大隊の設計で造られた。

70年前の立体交叉は珍しく人目を引いたと。

第一軍道は砂川筋で兵器廠街道と呼んだが、
今は府道稲荷中山線、
疎水の砂川橋も府費による架橋である。

第2軍道は、練兵場正門道路、
師団司令部へのメインストリートで豪華に造られた、
工兵第16大隊の直営で、地元深草農民が協力した、
道路の盛土は、練兵場の南側高台を一直線に整理した土を、
農民がかついで運んだと。

道の両側には、石の柵柱に鉄鎖のモールをつけた豪華なものであった。

今も僅かに残っている。

疎水に架かる師団橋の橋脚には、
陸軍のマークの星章が今も見える。

欄柱には、師団橋と明治41年3月竣工、
工兵第16大隊架設の刻字があったが数年前の架替工事で無惨にも上半分を破損放棄されたものを、
地元の河合行直氏が橋の傍に建てゝ下さっている。



第 二 軍 道 師 団 橋 の 標 柱


軍道の街路樹は桜であったが、
後にプラタナスが補植された。

烏丸のプラタナスよりも太く、
おそらく京都では最も古いプラタナス並木ではなかろうか、
然し第2軍道には今は僅かに2本を残すのみ、
今年の春も数本の大木がブルトーザーで抜き倒された、
残念至極である。

第2軍道は、明治44年に国道師団街道が造られた時に、
その一部であった。

終戦後、師団街道が国道24号線となってからは、
本線からそれているため、
放任され荒れ放題であったが、昭和46年に24号線が竹田街道に移り、
師団街道が市道となった機会に、
地元民が市議を煩して、今日の状態となった。

この軍道の南側の溝は、今だに2級河川、可笑しな話しである。

第3軍道は、野砲兵隊の正門道路、
中之郷橋(疎水)西中之郷橋(京阪電車)、
飯倉橋(人道)の3橋が立体交叉している。

初め深草村所管、終戦後には国道24号線、
今は府道の大津淀線である。

立体交叉の橋には歩道がないので甚だ危険であったが、
地元市政協力委員会の要請で、今の通りに造られた。

4 師 団 街 道

師団街道は、第一六師団新設に伴い、
軍の要請により明治四四年竣工の国道である。

塩小路柳原町−塩小路橋−福稲−練兵場正門−第二軍道−直違橋六丁目−師団司令部まで。

塩小路橋−福稲間は疎水に沿い、福稲−練兵場間は一直線の道、
この一直線上に兵器廠、練兵場、糧秣廠、
野砲兵、輜重兵などを配置する計画であったが、
糧秣廠以南は着手されなかった。

師団街道は、終戦後、国道24号線になり、
昭和46年24号線が竹田街道へ移ってからは、市道となった。

終戦後の師団街道は、
奈良への観光道路でもあって進駐軍や外人観光客の車がよく通ったが、
練兵場には拙宅だけの一軒家、
鯉のぼりをカメラにおさめに来たり、無花果など果物を買いに来たり、
時には日本茶をサービスしたり、
手真似で用を足したが、
なつかしい想い出である。

5 竹 田 街 道

竹田街道は、古く室町時代に 出来た道である。

京の七口の一つ竹田口(東洞院梅小路)から勧進橋、
旧鴨川堤を久保町、東高瀬川の東岸を竹田に至り、
伏見の各道や墨染−八科峠の大和街道に接続した。

文中の旧鴨川堤とは、
勧進橋−水鶏橋間の流れはもと東に湾曲していた、
その頃の堤。終戦直後に現在の直線に改修された。

明治28年、日本最初の市電の線路ができた時に、
勧進橋−棒鼻間は一直線に布設し、
その西に沿って現在の竹田街道がつくられた。

電車道としては変則な片側路面で、交通事故も少くなかった。

市電は昭和45年に廃止、翌46年、国道24号線となって、
今の如くに整備された。

因に、竹田出橋−飯食町間、
即ち練兵場と野砲兵との間の道は、
平安時代の大和春日詣道であり、
師団ができてからは、郡道師団前街道、
今は高速道路南側の市道である。

6 練 兵 場 と 飛 行 機

大正2年(1913)京都練兵場に、初めて飛行機が飛来した。

民間飛行士武石浩波氏は米国カーチス飛行学校に留学、
在留法人の寄附によるオールスコット機をたづさえて帰国するとの報がひとたび伝わるや、
朝日新聞社は、京阪神連絡飛行賞金1万円を企画した。

5月1日大阪から鳴海競馬場まで、
花電車を仕立てて迎える。

鳴海−大阪城東練兵場間の飛行は、
大観衆のなかで無事終わる。

5月4日、大阪城東−京都練兵場間には、
大阪市長から京都市長宛、
大阪衛戌司令官から16師団長宛のメッセージをたづさえて離陸、
淀川に沿って快適に飛行した。

京都練兵場には、長岡外史師団長、久迺宮聯隊長、知事市長など、
観衆山の如く、機影がはるかに見えると、
一斉に歓呼の嵐、やがて着陸体勢に入り、
機首を下げたが、そのまヽ一本松の傍に突き込み、機は大破、
武石飛行士は重傷、陸軍病院(現国立病院)に搬送中に死亡された。

日本民間飛行、最初の犠牲者である。

柩は翌日、騎馬儀杖の礼をもって遇され、京阪電車で大阪へ、
霊は八幡の飛行神社に祀られている。



武 石 浩 波 氏 と 搭 乗 機


この年の3月28日、所沢で陸軍機が、東京訪問飛行の帰途、
翼が折れて墜落、徳川、木村の両中尉が、
日本最初の犠牲者となった直後だけに、
国民のショックは大きかった。

次いで、大正4年1月2日、
京都市室町錦の出身者荻田常三郎飛行士が、
郷土訪問飛行を志し、大阪より京都練兵場に飛来、
翌3日空中ビラを積載して、
京都上空に向かって出発。

この壮挙を一目みんものと、
学童は教師に引率され、
一般観衆は師団街道や砂川堤に陣取り、
附近の住民は親類知人を招いて、
屋上で見物、市中では物干し台で寒空を仰ぎながら、
今やおそしと待った。

然るに、飛行機は離陸まもなく、
兵器廠火薬庫附近(現警察学校)に、
墜落炎上、荻田飛行士は即死。

墜落現場が火薬庫近くであったので、
立退き騒ぎで一時大混乱をしたが、
幸に爆発もなく、一同安堵の胸をなでおろしたと。

荻田飛行士は大正3年6月、
鳴海競馬場での帝国飛行協会主催第一回民間飛行大会で、
高度第一位、将来を嘱目されていたが、
郷土に錦を飾る寸前での惨事、
まことに痛ましい限りである。

墓は西大谷にある。

次いで、大正6年4月、鳥人アート・スミス氏が、
来日各地で公開飛行をしたが、
京都練兵場でも、宙返り、横転、縄くぐり等の妙技を演じ、拍手喝采を博した。

この時、観衆の面前で、飛行機を手早く解体し、
馬車に積んでさっさと持ち帰った。

このミニコンパクトには、
一同一驚を喫したと。

大正九年一月、京都練兵場での観兵式に、
飛行機が初めて参加、無事に飛行を了した。

この時の飛行機は、滋賀県八日市の飛行隊から、
解体して鉄道輸送、稲荷駅でトラックに積み、
練兵場の格納庫で組立、使用した。

その後、昭和5年頃までは、
練兵場は飛行場や気球観測場の役割をもはたしたわけである。

因に、日本最初の飛行は明治43年(1910)2月19日、
東京代々木練兵場で、
日野熊藤大尉が、独ハンス・グラーデ単葉機で、
高度30M、距離1,200M、飛行時間1分20秒、
徳川好敏大尉が、仏アンリー・ファルマン複葉機で、
高度70M、距離3,300M、飛行時間四分。

ライト兄弟の世界最初の飛行(1903)から、
僅か7年後のことである。

当日は寺内陸相、奥参謀総長、乃木大将も列席、
新聞も号外を出し、
全国つヾ浦々の話題をさらった。



明治43年日本最初の飛行 グラーデ式とフォルマン式
昭和35年航空50周年記念絵葉書と切手

大正時代の飛行熱は、大したもので、
少年は競って機種の写真を集め、
大空をかける飛行士を夢みたものである。

またこんな歌も大流行した。

若しも百万儲けたら  素敵な美人を妻にもち
新婚旅行は飛行機で  とんだ夢みて小便たれた

日本に於ける飛行機の揺藍時代の記録は、
明治時代の飛行機の研究家であり、
八幡の飛行神社の創設者でもある二宮忠八氏の事跡を取り扱った、
京都新聞連載小説「茜色の雲」(近く文芸春秋社出版)に詳述されている。
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