明 治 時 代


明 治 3 年 の 深 草 図


小西家所蔵 木村捷三郎氏模写による明治3年5月作製の深草村絵図を基として作りました。

原図は当時 庄屋・年寄が実地立会いの上、
田畠、川池、山等を七色に色分けして描かれております。

本図作製  河合 清

1 明 治 維 新 と 文 化

明治維新から急速に変化が始まった。

明治1年(1868)−鳥羽伏見の戦、つづいて明治維新
  6−深草小学校開校
 10−鉄道大阪−京都間開通
 13−鉄道京都−大津間開通
 22−市町村制により紀伊郡深草村となり、村役場、村長、村会議員が生れる
 23−疎水開通
 27−日清戦争起こる
 28−疎水第二期工事竣工、西浦の田にも水が入る
  同−日本最初の電車、京都−伏見間開通
  同−奈良鉄道開通
 31−歩兵第九聯隊設置
 37−日露戦争起こる
 40−第一六師団設置、西浦の地が練兵場となる
 44−師団街道できる
 45−京阪電車開通

2 鳥 羽 伏 見 の 戦

徳川15代慶喜は、慶応3年(1867)大政を奉還して、
二条城から大阪城に移ったが、
これを不満とする幕軍(会津・桑名)が京に入らんとしたのを、
官軍が阻止して、鳥羽街道と伏見市中で戦った、
時に明治1年1月、戊辰戦争という、規模は小さいが、
明治維新を急転直下に達成した重要な戦である。

官軍西部隊(薩州)は、本拠地東寺から城南宮西の秋の山に砲列をしき火蓋を切った。

官軍東部隊(長州)は、本拠地大佛より砂川一本松に進み、
松上から偵察中、秋の山の砲声を聞き、西浦の北側、砂川沿いを進軍、
西浦町西の大和街道で前哨戦となる。

戦況は幕軍不利、戦いつつ南下し伏見の市街戦となり、
下三栖、油掛などで激戦、
しかし幕軍の根拠地、伏見奉行所が桃山からの砲撃で炎上するに至り、
淀川堤を淀城方面に敗走した。

大阪城にあった慶喜は、謝罪して海路江戸に退く。

かくて明治維新は、次のように急速に進展したのである。

 1月−鳥羽伏見の戦
 3月−西郷吉之助、勝海舟による江戸開城
 4月−官軍江戸入城、慶喜水戸に退く
 7月−江戸を東京と改む
 8月−慶応を明治と改元
 9月−幕軍の最大拠点、会津城は白虎隊の哀史を残して落城
10月−函館五稜郭占領、明治維新完了す
戦勝の官軍、官員の士気はすこぶる旺盛、「宮さん」の歌が全国に流行した。

宮さん宮さん御馬の前でヒラヒラするのは何じゃいな
あれは朝敵征伐せよとの錦の御旗じゃないかいな
鳥羽伏見の戦の記念碑は城南宮秋の山、
伏見奉行所跡、榎町悟真寺、下鳥羽法傳寺、納所下野などにある。

3 汽 車 深 草 を 走 る

鉄道東海道線は、明治10年大阪−京都間、
同13年京都−大津間が開通した。

このときの東海道線は、京都駅−稲荷駅、
谷口町から勧修寺を経て−山科駅への路線であった。

何しろ深草の地を汽車が走るというので、
見物人で大騒ぎであったと。

この頃の照明は、すべて石油ランプ、
稲荷駅には当時の,「ランプ小屋」が残してあるが、
小さいが赤煉瓦造りのしっかりしたものである。

道べりにあるので一見下さい。

稲荷廻りの東海道線は、
大正10年(1921)東山トンネルが開通して廃止されたが、
稲荷駅は奈良線の駅として残った。

4 日 本 最 初 の 市 電

西浦町西辺の竹田街道に日本最初の市電が走った、
明治28年(1895)のことである。

京都電気株式会社の経営で、
京都塩小路−伏見油掛間6・76q、幅員0.76mの狭軌、
木造一6人乗り、
ベルを鳴らして走ったので「チンチン電車」と愛称された。

当時の交通法規では、時速10q以内、先乗りをつけること、
14〜5才の子が昼は赤旗、
夜は赤提灯をもって「電車が来まっせ、危のうおっせ」と前を走ったと、
今も古老の語り草。

この先乗りも、寒い日には青ばなをたらし見苦しいので、
明治37年に廃止。

西浦町の練兵場は、
この電車道を境としてつくられ、
停留場も「練兵場前」(今の竹田久保町)、
営所前(今の城南宮道)があった。

電車の電源は、
蹴上と丹下にある疎水インクラインに造られた蹴上水力発電所によった。

この水力発電は、アメリカに次いで世界2番目、
日本では勿論最初である。

京都の市電は、大正7年市営となり、
軌道や車型も改善し、
市民の足として重宝されたが、
世は自動車時代と変り、累年の赤字、結極市電全廃に決定、
廃線第一号に、何と日本最初の伏見線が選ばれ、昭和四五年撤去、
次いで順次廃止、53年9月には全廃となったのである。

京の秋 惜しまれつ行く 花電車
松 甫

5 京 阪 電 車

京阪電車は明治45年(1912)四月、
大阪片町−京都五条間を開通、
今の「藤森駅」は「師団前」と言われ、
軍用の長いプラットホームや軍用の出入口などがあった。

駅前は入営、除隊、面会などで賑わった。

6 疎 水

疎水は正式の名を「琵琶湖疎水」と言ふ人工運河である。

大津三保ヶ崎から伏見城外濠りの掘詰に至る延長20q、
三井寺長等山と東山をトンネルで、
蹴上と伏見丹下にインクラインと水力発電所を、
また蹴上げに水道浄水場を設けた。

明治18年(1885)着工、工期四年半、23年4月9日竣工した。

工費は125万円余、当時の京都府予算が50万円、
国の土木予算が100万円、
疎水の運賃が米一俵京都大津間一銭五厘に比較していかに大事業であったかが窺われる。

この疎水の目的は、長浜−大津−京都−大阪への北陸物資の通船、
水車動力による産業、
農業用水、水道と御所本願寺用水などの多目的、
途中で水力発電を追加した。

原案は工部大学校の田辺朔郎学生の卒論、
大島奎介校長が着目して、北垣国道京都府知事に紹介した。

当時の京都は東京遷都で火が消えたような沈滞、
この際、人心を一新して産業の振興を企らねばと、
知事は関係先を説得し、弱冠25才の田辺技師に施工せしめた決断力、
また、若者による維新の大事業を茲にも見ることができる。

難工事は、三井寺長等山トンネル2,436M、世界にも稀れな長さである。

湧水、崩壊、コレラ流行、地元民の反対など、
殉職者も17名を出したが、竪抗を考案して成功させた。

深草附近の疎水は、第二期工事として、
正門通り閘門から丹下船溜まりまでを、
明治25〜26年の継続事業とし、
経費12万余円、稲荷駅裏に事務所を置いて、28年3月に竣工した。

この区間は主として農業用で、
所々に「井堰」を設けて水を落としたが、
西浦方面用が最も多い。

「井堰」は今は使用されていないが昔のまゝに残っているので御一見下さい。

「疎水功労者寺内計之助報恩碑」
深草七瀬川常泰寺にある、
碑文に曰く、氏は飯食町素封家に生れ、
地方自治につくした。

疎水水路の誘致についても、
耕地減少を理由に異論があったが、
農業用水の必要を力説して現在地に決定させた。

今疎水の恩恵甚大、農民挙って碑を建て、その恩に報ゆ。と
        昭和26年 深草農業会



深 草 付 近 の 疎 水 と 井 堰


「深草焙り田」と言われ、年々水喧嘩の絶えなかったが、
疎水の水は、ただで自由自在につかえる。

農家の喜びやいかばかりか、将に「疎水万々才」であった。

この碑の建立には、不肖秋山が市農務課在勤中、
久保府議、辻市議への進言が引金となったので、
私も心ひそかに喜んでいる。
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