江 戸 時 代

1 伏 見 奉 行 と 庄 屋

江戸時代に入ると、国内は完全に統一して行政も浸透し、
封建制ではあるが泰平無事の世が、
明治維新まで実に300年もつづいた。

伏見の地は、伏見城廃止後も徳川の直轄地として奉行所が置かれた。

伏見奉行所の所管は、
城下町と伏見廻八村(堀内・向島・葮島・六地蔵・三栖・景勝・大亀谷・深草村)、
この外に宇治川筋、木津川筋、山科南部など禄高四千石。

伏見廻り8村は庄屋制、西浦町は深草村庄屋の支配、
所領は公家・社寺など錯綜していた。

深草村庄屋には小西家、今邑家など、
今も子孫が居住している。

奉行所と庄屋の組織は、
奉行−惣年寄−興頭−惣代−町方
取締−与力・同心−牢番・小仕
町役・年行事−町年寄−五人組
奉行−庄屋−年寄−五人組−百姓惣代−定雇−肝煎
伏見奉行の初代は、大阪城代松平忠吉(2代将軍秀忠の弟、清洲52万石)が兼務、
伏見奉行の任務には西国大名が船による御所への出入りを監視する事項があったので、
京都所司代よりも重視された。

奉行は明治維新まで44代、中には異色の奉行もいたが、
造園家として有名な小堀遠州や遠州から150年後の直系、
小堀政方もいるが、この奉行は悪政を布いたため、
伏見義民に直訴され、奉行は勿論、中央の老中も失脚する大事件もあった。

奉行所は初め六地蔵にあったが、小堀遠州の時、御香宮の前に移転、
名園を造り3代将軍家光を招いて茶会を催した。

幕末には近藤勇、土方歳三などの新選組が壬生を追れて、
ここを屯所としたこともある。

明治維新の伏見鳥羽の戦には官軍の集中砲火で全焼した。

明治には工兵第16大隊、終戦後には進駐軍の通信部隊が駐屯し、
今は市営桃陵団地となっている。

因に、小堀遠州(1577〜1646)は名を政一、
江州小室1万余石の大名、備中高梁の代官を勤めて認められ、
元和九年から没年までの25年間、伏見奉行として名声をあげた。

また、茶道は遠州流の開祖で3代将軍の師匠、大徳寺の狐蓬庵、
金地院の鶴亀庭などの名造園家、正保4年在職中に卒、
享年69墓は伏見八科峠の仏国寺と江州上野の小堀家墓地にある。

2 高 瀬 川

西浦町竹田街道のすぐ西を流れている小川これが東高瀬川である。

今は川というよりも溝である。

西浦町内を流れる砂川、キトロ川、長根寺川などの小川は、
総て高瀬川に流れ込むが、大雨で呑みきれぬ時は、
西浦町の西部一帯は水海と化し、竹田街道に溢れる。

今は砂川だけは、高瀬川への落口でポンプアップして加茂川に流して氾濫を防いでいる。

高瀬川は京の豪商角倉了以が、慶長16年(1611)徳川家康の許可を得て開さくした運河である。

了以はこの前、豊臣秀頼が洛東大仏殿建立の際、
巨石大木の運搬の命を受けたが、運河を掘り、門で水位を上げて、
任を全うした実績が買われて許可された。

高瀬川は、京の二条で加茂川の水を分ち、
角倉了以邸の庭園を流した後、二条から運河として、
中川原町など、竹田とフチ町の間を南下し、伏見三栖半町で宇治川支流に入る。

延長約八KM、巾約6M、曳舟道をつけ、水路は適度に湾曲して流速を均一化した。

文中、旧加茂川跡地とは、豊臣秀吉の伏見城築城計画の一環事業として、
今まで宇治川に流れ込んでいた加茂川を、福稲−水鶏橋付近でせき止め、
西の桂川へと川の流れを変えた、古い加茂川跡のことである。

高瀬川には、高瀬舟という、船首が高く、底が平、人が曳く舟を用いた。

了以が岡山を旅行中に見た高瀬舟を模した。また川の名前も高瀬川となったという。

盛時には、240艘、曳子7000人、
ふんどし姿で「ホーイ、ホーイ」の曳舟掛声は数里に及んだと。

歌舞伎役者が、鳴物入りの高瀬舟で京入りした故事は、
思い浮かべるだに優雅な風物詩である。

今は二条一の舟入りに観光用の高瀬舟が浮かんでいる。

一すじに 淵瀬もなしに 春の水

瓢 々。

虫の音の 中を上るや 高瀬舟

一 菊。

木枯しや 胸を突き出す 高瀬舟

舎 蕃。

高瀬川の開通は、京都−大阪間の物資直通により、京の物価は著しく下り、
都民斉しく恩恵に浴し、300年の長い間利用された。

しかし明治9年(1876)鉄道が開通してからは、急に衰微、
僅かに稲荷参拝客や近郊の農家の農産物、
京からの肥料舟として利用するにすぎず、
その後、自動車が現れるに及び、大正9年(1920)には運行廃止となった。

それ以来、高瀬川は汚れ放題、埋めて道路や駐車場にとの声が、
幾度か起ったが幸か不幸か高瀬川は小なりと言えども国の一級河川であったため、
手続きに手間どり存続、約20年前、
沿岸の有志により高瀬川保勝会が結成されて、
清掃奉仕や高瀬舟の復原、灯篭流しなどが復活した。

町を流れる水のせせらぎ、岸辺の柳に吹くそよ風、
多忙な市民の心をいかほど和らげるでしょう。

加えて歴史の重み、観光京都の史跡の一つとして、
いついつまでも大切にしたいものである。

寝て思ふ 柳の青き 京の町

南 葉。

福稲から伏見に至る東高瀬川の現状は、
水取入口は埋没して「若草児童公園」となり、
川筋は昔のままに在るには在るが、水を流さぬどぶ溝、
地元住民から清掃や補修の陳情もあるが、一級河川のためか、
一向に埒があかず目下放任状態である。

景勝町から三栖東ノ口の淀川まで、
高瀬川に沿って一直線に新高瀬川がつくられ、
途中毛利町で住吉からの疎水放水路を入れ、
伏見一帯の放水の役割をしている。

因に嵯峨から三条千本までに、西高瀬川があるが、
これも角倉了以が開さくした木材運送用の運河である。

高瀬川の記念碑が、伏見三栖半町の高瀬川川口にある。

「角倉了以水利記功碑」と刻された大きい自然石、今は民家の屋敷内にある。

嵐山大悲閣にも、記念碑と了以が石割斧を持った河川開さく姿の像がある。

角倉了以は、名を吉田光好、代々医家であるが、弟に譲り、
朱印船(清水寺本堂内の角倉船、天竜船参照)での貿易により、
巨富を得、これを資として、
珍しく火薬を用いて富士川、天竜川、保津川、高瀬川などを開さく、
交通運輸に多大の貢献をし、また通運の利権を得た。

晩年は法体となり、嵐山に大悲閣を建立して、工事中の犠牲者の菩提を弔った。

慶重19年高瀬川竣工前にこの地で没、行年61、墓は嵯峨二尊院にある。

3 農 業 用 水 と 水 引 半 兵 衛



水 引 半 兵 衛 の 碑


西浦町は長い間、農地であって、水は砂川、キトロ川、長根寺川によったが、
何れも水量が尠く、上流に溜池を造ったが、
旱天には「深草の焙り田」と言われる位に水不足であった。

江戸時代の中期明和の頃(1770)用水路として西浦町の東部に「大井筋」、
中央部に「岡田井筋」が造られた。

大井筋は稲荷から、現在の師団街道附近を湾曲して第二軍道附近に至り、
主として西浦町東部の水田に用いた。

岡田井筋は、十条高瀬川取入口付近から(昔はこの附近を岡田郷という)鈴塚、
今在所を通り、塚本町とヲカヤ町の界から、西浦町の中央部を横断、
池の内町とフチ町との界から小久保町で七瀬川に落とした。

今も伏高東側やフチ町などに昔の面影が残っている。

(明治3年深草地図参照)。

西浦町内では、ほぼ中央部に大閘門を設けて配水をしたが、
当時の閘板が今邑家(直違橋九丁目)に保存されている。

深草小久保町の「古久保墓地」に、
「百姓半兵衛の墓」と「水引半兵衛顕徳碑」があるが、
碑文に曰く、百姓半兵衛は今を去る200年前、深草の水田に用水を引くため、
自分の命を犠牲にして、多くの農民を水飢饉から救った恩人である。

口碑によると深草奈良屋の百姓半兵衛は高瀬川からの水の取入れで、
竹田の農民と争い、一応は成功したが、
不幸にも岡田井筋取入口附近で一命をおとす結果となったと。

4 伏 見 義 民  焼塩屋権兵衛

伏見義民は西浦町とは直接には関係はないが、
伏見の歴史では有名、
特に一味の焼塩屋権兵衛は深草の人であるので、御参考までに略記する。

御香宮に「伏見義民碑」(勝海舟筆)藤森神社に「伏見義民焼塩屋権兵衛碑」がある。

伏見義民は天明義挙とも言い、
天明五年(1785)伏見奉行小堀政方の悪政に抗議、
伏見町民を救わんと死を賭して、直訴をした、文珠九助など七名の義挙である。

当時は老中田沼意次の時代で、賄賂横行の暗黒時代であったが、
小堀奉行は田沼とは密接な関係があったので、
虎の威を借る狐の諺の通りに悪政を行った。

義挙は日頃から田沼に反骨する松平伯耆守と連絡の上、江戸で直訴した。

直訴は成功して、小堀奉行は失脚、一万余石の大名を失い、
祖先の名園家小堀遠州の名を汚した。

又この事件は中央にも波及し、
一世の権勢家田沼老中も失脚するに至ったのである。

しかし、直訴は当時の法度、義民は投獄、
苛酷の取扱いのために獄中に横死、
遺族も迫害に堪えられず四散した。

焼塩屋権兵衛は義挙の参謀格で人望も厚かった。家は深草で代々の瓦焼、
瓦焼の余熱で焼塩を造って商ったので焼塩屋と呼んだ。

深草直違橋九丁目の岡本元市議宅が屋敷跡という、
遺族は幸いにも生き抜き、7代目が現存すると。

5 深 草 の 農 産

西浦の土地は、明治40〇年(1907)練兵場となるまでは、
永い間の農地で、東部は茶畑や野菜畑、
西部は稲作、裏に麦や菜種が作られ、
南部の三心房墓地一帯は竹薮が多かった。

抑々、深草は京の近郊農村であるが、
九条や吉祥院などの純青物産地と違い、
米麦を主体に茶、筍、果物、野菜が生産され、
特産物としては次のものがあった。

「孟宗筍」稲荷山から桃山山麓一帯には、古くから竹が多く、
専業の「薮百姓」や筍加工工場などもあった。

「大亀谷の朝掘り筍」は、色白、柔軟、アクが尠く、
その味は古くから日本一と言われた。

今は都市化のため年々減少、栽培にも熱をかき、
名声は西山長岡天神方面に移ってしまった。

「ねずみ大根」中長丸尻、恰も鼠に似た沢庵用の大根である。

味と歯切れが良いので好評、
大亀谷の赤土に良品を産し、土つきのまま出荷された。

京の商家は漬物倉や圧し石を沢山に用意して競って漬けたものである。

漬方は百姓のサービス、
旦 那 「かろう漬けておくれやす」「ハイハイ」
丁 稚 「あもう御願いしまっせ」「ハイハイ」
明治に入ってからは、
サッカリンをこっそり入れて満足させたと古老の笑話。

今は地方の量産沢庵が出廻るので、
商家の漬物倉も圧し石も姿を消し、
昔を懐かしむ食通だけが愛用している。

「久保柿」小形の胡麻の多い甘柿、
種子は多いけれど甘味が強く、
歯ざわりが良いので、京では広く売れた。

この柿の木は孟宗薮に混植され老木が多かった。

今は「富有」などに押され市場出荷は殆んど無い。

因に、深草など近郊農家の肥料は、京の屎尿に依存したものである。

ところが需要が次第に増え、淀川沿いに大阪近くまで及び、
又粗食の下京ものよりも美食の上京ものが喜ばれ、
屎尿争奪の臭い事件が起り、
所司代が介入して地割や「糞問屋」など一連の制度がつくられた。

高瀬川に頻繁に往来する肥え舟は、
江戸、明治、大正と永い間つづいた京の一風物詩であった。
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