桃 山 時 代

1 伏 見 城

豊臣秀吉は、晩年の居城として、伏見城を造ったが、
その城下町を大名屋敷として、徳川家康はじめ全国二百数十の、
大名・小名・旗本の屋敷に割り当てた。

西浦町東南部の広大な地域は、大和大納言秀長卿に割り当てられた、
大名屋敷としては、最北端、京都御所に最も近い位置である。

抑、この大名屋敷は、大名の妻子を人質として居住せしめる目的であった。
しかし秀吉が間もなく死亡したので、完成するに至らなかった。
西浦町を割り当てられた秀長の屋敷も建築した模様はない。

秀長は秀吉の甥、大和郡山の城主、奈良一円五十余万石の大名である。
秀吉に従い、各地に転戦、紀伊熊野の一揆鎮圧などで功をたてて重用され、
羽柴や豊臣の姓を賜っていたが、桃山城竣工前に死亡した。

伏見城下町は、秀吉がもう少し長生きしていたら日本一の都市となっていただろうと言われている。

今も当時の面影が、町名として沢山に残っている。
例えば松平筑前・福島大夫・永井久太郎など、長い人名の町名で珍しい。
伏見城は、吾々伏見に住む者にとっては、興味津々たるものがあるので、簡単に述べてみる。

伏見城は秀吉が天下を統一した晩年、大阪城を子秀頼に譲り、
隠居城として造ったが、実は自分の権勢を内外に誇示するため、
殊に外国使節の謁見所としたので、その規模は壮大、
構造は豪華絢爛を極めた、いわゆる桃山文化の粋を結集して造ったのである。

築城工事は、文禄3年(1594)着工、実に25万人を動員し、
僅かに1年余に竣工させた。
五重天守閣は金瓦をふいた、輝きわたるこの威容には、
さすがに外国使節の度肝を抜いたであろう。

城内は、本丸、西丸、名護屋丸、三の丸、松丸、太鼓丸の外に、
外国使節用の学問所と江雪堀とは、特に華麗を極めた。

また城内の周囲には、治郎丸(石田三成)、徳善丸(前田玄以)、
弾正丸(浅野長政)、大蔵丸(長束正家)など腹心武将の邸を配して、難攻不落の構えとした。

城下には、前記の如く、全国二百数十の、大名小名旗本屋敷としたが、
地域は広く、東は醍醐石田の石田三成屋敷を東限、
西は湿地のため里三栖まで、南には向島に徳川家康の、本丸、二の丸、三の丸、を濠で囲んだ屋敷、
北は深草西浦町の豊臣秀長屋敷を北限とした。
築城の付帯工事として、舟入、築堤、堀濠、大和街道、
伏見街道などの土木工事が行われた。

「舟入」は、淀川を上ってくる外国使節船の着船場、
築港の水位を高めるため、宇治川堤を造り、
巨椋池に流れ込む水を防いだ。また伏見の町のため、
淀川堤を諸国大名に下命した。今の太閤堤である。

「城濠」は、秀吉が最も苦慮したところであったが、
幸いに江雪堀に水源を発見、広大な内濠、外濠を造ることができた。

今残っているのは、桃山陵の空堀、水道貯水池、浄水場、
外濠では、丹下(インクライン)から三栖に至る濠川、今は疎水が流れている。

「新大和街道」は、巨椋池を横切って造り、
宇治川に豊後橋(今の観月橋)を架けて、伏見街道と結んだ、
旧大和街道(墨染−八科峠−木幡)に比して、大いに便利となった。
今は向島町筋、近鉄線沿いに残っている。

「伏見街道」は、伏見城と御所とを結ぶ幹線として、
大手筋御香宮から、深草直違橋通り、本町通りに至る一直線の道である。
道の両側は、一定の間口と奥行きで町家とした。今も当時の間口が残っている。
伏見街道は、深草で大津街道(勧修寺道)と連結させたので、
商家が並び、伏見人形、深草扇などの土産を売ったが、稲荷門前町と共に賑わった。

伏見城工事には、莫大な人員と物資が動いたので、
地元深草の人は大いに潤ったと。

竣工後の伏見城は、
翌年(慶長元年)畿内大地震(震源地は伏見鳥羽)で城中建物はことごとく倒壊、
女中の死者600という。ふんどしに刀姿で、馳せ参じた、
勘気中の加藤清正の故事は有名、期待した明国使節の引見は、
金瓦とは打って代わり、瓦礫の城中で行われた、
秀吉の無念さが想像される、しかも明の国書に「汝を以て日本天子とす」には、
秀吉烈火の如く怒り、再度朝鮮出兵となった。

翌年天守閣その他再建成る、
その翌春(慶長3年)秀吉は伏見城完成を喜び、
ライバル徳川家康を連れて、醍醐の花見を催したが、
8月子秀頼の後事を、五大老五奉行に託し、伏見城内で病没した。

喪は朝鮮出兵軍の撤退まで極秘にふし、東山阿弥陀ヶ峯に葬る、
後に山楚に豊公廟を建てる、今の豊国神社である。

豊臣秀吉は、尾張貧農の子、日吉丸から足軽木下藤吉郎、
織田信長につかえ各地に転戦、無血攻略の名将として、
屈指の武将に出世、逆臣明智光秀を討ち、群雄割拠の戦国を統一、
位人臣の最高、摂政関白大政大臣正一位に、
死後には豊国大明神の勅賜さえうけ、海外出兵までした稀代の英傑であった。
この太閤さんは、思いのままに造った伏見城で城の完成と共に、
波乱万丈の一生を終わったのである。辞世に

露と落ち露と散りにし吾が身かな 難波のことは夢のまた夢

秀吉没後の伏見城は次の如し

伏見城史
1598−慶長3年、秀吉病没、行年63、阿弥陀ヶ峰に葬る。

1599−秀吉の子秀頼大阪城に移り、伏見城に徳川家康入り、
鳥居元忠を城代とする。

1600−慶長5年、関ヶ原戦の前哨戦として、石田三成の西軍4万、
伏見城を攻撃、鳥居勢1800孤軍奮闘し玉砕す。
関ヶ原戦は徳川の東軍大勝、伏見城は徳川の京都御所と大阪城に対する拠点とする。

1603−家康伏見城にて征夷大将軍宣下、秀忠の長女千姫が、
伏見城より大阪城の秀頼に嫁ぐ。

1605−家康、朝鮮使節を伏見城で引見したが信用されず、
2代秀忠将軍宣下の祝典を綺羅を尽くして行う、
参列の貴族大名数十名、兵十数万、民衆無数、
この盛儀を家康朝鮮使節と共に見物、和議の促進を図る。

1614−大阪城冬の陣、家康伏見城より号令する。

1615−元和元年、大阪城夏の陣、秀頼、淀君自刃、豊臣氏滅ぶ。

1616−徳川家康没す。行年七六、久能山に葬る。

1609−元和5年、伏見城を壊す、什器は駿府城へ、建物は淀城築城に、
また社寺にも寄進(西本願寺唐門、大書院、能舞台、豊国神社唐門、御香宮大手門等)
城跡には桃の木を一面に植える、以来桃山と呼ぶ。
豪華をほこり、有為転変の伏見城は、僅かに25年の短命で終ったのである。

城跡や燃ゆる火もなく桃の花
舜  福

我が衣伏見の桃のしづくせよ
芭  蕉

月見せん伏見の城の捨郭
去  来

伏見城の跡地は、今は正確な地名を古城山と言い、
本丸跡には、明治天皇の桃山陵、名護屋丸跡には、
明治天皇皇后の桃山東陵、大蔵丸跡には観光桃山城が建っている。

2 深 草 の 瓦

豊臣秀吉は、姫路城築造の時にやとった瓦師を、大阪城にも招いた。
秀吉という方は、自分の頭上を非常に気にする性格の人で、
千利休が寄進した大徳寺山門の、利休像の下をくぐったことから、
利休を自刃に追い込んだ事件は、代表的な例である。
従って頭上の仕事をする瓦師に対しては、厳重な人選と過分な待遇を与えた。
伏見城の場合にも、原料粘土の産地深草に用地を与え、
御用瓦師の名称と諸税賦役を免除。

伏見城の金瓦もここで焼かれたわけである。

深草瓦師はそれ以来、深草に定住し、
京都大仏殿再建、内裏炎上再建、二条城のほか各宗大本山の御用を賜った。

今も深草瓦町には、瓦棟梁寺本甚兵衛が代々襲名して、手製の瓦を焼いている。

深草瓦は凍に強く、漏水や変色もないので、今でも社寺、豪邸に重宝されている。


3 深 草 の 粘 土

深草に産する粘土と深草の歴史とは、不可分の関係がある。

抑も、京都盆地は太古(地質第3紀)瀬戸内東辺の、
断層運動で陥落した旧大阪湾の海底であったが、
その後の地殻変動で隆起して陸地となり周囲の山々から土砂流入によって、
現在の盆地となったとされている。

西浦町でも、深層は海底の青色粘土層で、地質学では旧期洪積層、
表土は流積した沖積層で東山西側の洪積層の一連である。

稲荷山から桃山に至る丘には、所々粘土層が露出し、
貝の化石やハス、ヒシ等の海浜植物の半化石が出土する。

この粘土に着目した原始人は、神器や日用土器を造った、
縄文土器(約3000年前)が西浦町や谷口町に散見し、
弥生土器(約2000年前)が西浦町の遺跡から出土している。

大和朝(約1500年前)には、土師氏が居住して、朝廷用の土器を焼き、
それ以来、瓦・人形・砥粉(とのこ)・色土など深草の産業となった。

然し、量と質の点から陶器の大産業に至らなかった。

粘土の産地は、稲荷山〜桃山間に点々とある露出部であるが、
量が少ないので、掘り終ると埋め戻して畑にする。

最近そこが宅地となり、地盤がゆるいため建築後に悶着も起きている所もある。

古くからの産地は、谷口町と瓦町の東に在る「らくだ山」で、
古くはこの付近を「土取」と呼び、多くの人夫が働いていたが、
人夫らが賭博をし、よく喧嘩があったので「ケンカ山」とも呼んだ。

深草小学校の子供が化石を探しながら遊ぶ場所でもあったが、
今は大部分が名神高速道路の下になった。

色土はセメントと混ぜて、
壁土や漆喰などにする粘土で、粘土塊を風乾・粉砕して出荷する、
その工場が東伊達町にあったが、今は中止している。

聞くところによると、
滋賀県で名神高速道路工事中に、豊富な粘土層が発見されたためと言う。


4 伏 見 人 形

稲荷神社界隈で作り売られている人形、
深草粘土を用いて型造り素焼きにして彩色した人形である。

庶民の風俗・信仰を粗野に表現、ユーモアたっぷりの愛すべき人形である。

種類は多いが主なものを挙げると、
「布袋」黒い布袋の座像で大小がある、台所に祀るが、小から大へ、
毎年一個づつふやして並べる、若しも家に不幸があれば、
全部を川に流して、また新企にはじめる。

今でも旧家の台所には、十数個もならぶのを見受ける。

「狐」稲荷大名神の御使、小判乗り、俵乗り、御幣持ち、千両持ちなどがある。

「デンボ」遊戯用の菓子入れ、柚でんぼが多い、
京童歌に「丁稚でんぼ、稲荷の土産、落ちたら割れる」、
「饅頭喰」子供が両手に饅頭を半分ずつ持つ人形、
由来は、或る人、子供に父と母と何れが好かと問う、
子供、饅頭を二つに割り、おっさんどっちが旨いかと問い返したという故事。

この他、つぼつぼ、かまかま、チョロケン、成田屋、西行、
おぼこ、なで牛、天神などがある。

西行も牛もおやまも何もかも  土に化けたる伏見街道
一休 禅師

この子この子と奉られて  この子伏見の土人形
伏見子守唄

伏見人形は、大和朝廷の頃、土師氏が深草の粘土で、
祭祀用品を焼いた時の「土偶」が原形であるという。

又一説には、稲荷神社の「赤焼土」を、
田圃に入れると豊作となるという信仰が、土人形となったと。

元和年間(1620)鵤幸右衛門の考案した人形が好評、
天保の頃(1800)には、伏見街道に五〇余の窯元、
10余の店があってにぎわったが博多人形、
京人形が大衆化して以来、淋れて今は大西、上田家が伝統をついでいる。

しかし近年に至り、その粗野美が評価され、再興の気運に向いている。

全国各地にある郷土人形には、稲荷詣りの土産に買った人形が、
原型となったものが多い。

伏見人形の名は伏見とは関係なく、
むしろ稲荷人形とでも言うべきであるが、深草にある稲荷神社を、
伏見稲荷神社と呼ぶようなもので、
伏見奉行時代に伏見街道筋だけは奉行の直轄であった関係であるという。


5 深 草 う ち わ


深草の里うちわ屋店


深草の少将うちわやすければ 京の小町に哭はやらかす
去  来

図中には伏見人形を見せ合っている場面もある。

深草うちわは口碑によると、天正年間(1580頃)深草の河内利右衛門が、
古代奈良うちわを模して、「深草うちわ」と名付けて売ったところ、
大いに好評、全国に伝わった、握りが太く、
腰が強いので客に風を送るに都合がよい、
今でも京都の花街では、芸名や紋章を入れて配っている。

その後、寛文年間(1660頃)深草端光寺の元政上人が、
瓜実形の軽くてしなやかなうちわに改良した、
これは自分を扇ぐうちわで、襟口や袖口から玉のように風がはいる。

しかも元政上人は扇面に自作の歌一句を書き添えた。

植え置きて空しき心すなほなる  姿を友となるる呉竹

はてしなき草の枕の武蔵野も  月には秋のかぎりをぞ知る

この風流なうちわは「元政うちわ」と呼ばれ、よく売れ、全国に広く普及した。

今、深草では生産も販売も全くない、
今は扇骨は江州、仕上げは京都が産地である。

因に「元政上人」(1622〜68)は、江戸初期の文人、もと彦根の藩士、
生来病弱のため26才で出家、日連宗僧侶となり、
深草端光寺を創立、学問僧として経典を開版し、
また文学でも大成、詩文集「草山集」、歌集「草山和歌集」などを出版、
洛北詩仙堂の石川丈山と並び称された。

また元政上人は無類の孝子であった。

一例に、母に先立ちて悲しみ与うるは不孝の極であるとして、
己の病身の保養に勉め、
母を見送り、46才で病没した。

墓は端光寺内竹三竿の塚がそれである。

質素な土饅頭ながら香煙の絶ゆることがない。

  水戸の黄門徳川光圀は、兵庫湊川に「嗚呼忠臣楠氏之墓」を建てての帰路、
元政の墓に詣で「嗚呼孝子元政之墓」を建てたと、
説明標札は建っているが、墓石はない。


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