南 北 朝 時 代

1 南 北 朝 内 乱 と 深 草

西浦町にはこの時期の事蹟らしいものは無いが深草の地ともなると、
南北朝内乱、応仁の乱、山城土一揆などとは深い関係があるので、
簡単に述べてみる。

抑も、南北朝内乱は、皇位を争った事件であるが、
時の権謀家が自己の権力拡大のため、
天皇を奉戴して争った内乱で、南朝(大覚寺統)は96後醍醐天皇と楠木正成に代表され、
北朝(持明院統)は北1光厳天皇と足利尊氏に代表される。

深草との関係は、深草の地が持明院統(北朝)に所属している関係で
「深草十二帝陵」も持明院統の十二の天皇の陵で、
この間の事情が窺われる。

南北朝内乱(1321〜92)は七〇年間続き、
その間の天皇即位は、南朝5代、北朝6代である。

南北朝内乱の経過
1321−後醍醐天皇院政を廃す。

1324−天皇倒幕の議が漏れ、側近が多数処刑される。(正中の乱)

1331−又、倒幕の謀議が漏れ、幕軍が出兵し、
天皇は笠置山におちる。楠木正成が河内に挙兵したが間に合わず、
幕軍は笠置を攻め天皇を捕らえて、隠岐に流す。
光厳天皇を擁立し践祚す。(北朝第一代・元弘の乱)

1333−後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の名和長年に迎えられる。
新田義貞鎌倉を陥す。北条高時一家一門自 刃。140年続いた鎌倉幕府亡ぶ。
後醍醐天皇帰京し、光厳天皇を廃して親政とする。(建武の中興)

1336−新田義貞と足利尊氏との確執あり、尊氏破れて九州に逃がれるが、
直ちに勢力を回復して東上する。
楠木正成は兵庫湊川で防戦したが破れて戦死する。尊氏入京。
後醍醐天皇は神器を奉じて吉野山に移る。(南朝)
尊氏が擁立した光明天皇(光厳帝の弟)が践祚する。(北朝)

1338−尊氏征夷大将軍に任じ、室町幕府を開く。(220年間続く)
これより五〇年間、京都は首都争奪戦が繰り返して戦場となる。

1339−後醍醐天皇崩御、吉野如意輪陵。
尊氏は夢国禅師のすすめにより、後醍醐天皇の慰霊のため、
嵯峨に天竜寺を建立する。

1358−足利尊氏没す。

1392−和議成り、南朝の99後亀山天皇は、嵯峨の大覚寺に於いて、
北朝の6後小松天皇に神器を譲り、皇統100代となり、南北朝内乱は終る。
後醍醐天皇は、院政や幕政が、幼少の天皇を擁立して政治を専横するのに対し、
天皇親政を理想として、その実現に努力し、
建武の中興で一応成功したが、僅かに五ヶ年で又々幕政となり、
その後、明治維新の王政復古まで五百数十年もつづいたのである。

2 応 仁 の 乱

応仁の乱(1467〜77)は室町幕府八代義政の時、
管領、守護職の任命をめぐって起きた勢力争いで、
骨肉あいはむ凄惨な戦争に発展した事件である。

東軍   細川勝元  斯波義敏  畠山長政
西軍   山名宗全  斯波義簾  畠山義就

戦闘は、まず御霊神社で始まり、烏丸通りを境にして、
両軍とも焼打ち戦法で、十年間焼きに焼いて闘った。

当時の記録によると、京都連日火災、焼亡七百余町三万余宇、
社寺邸宅ことごとく焼失、戦焼死者街路に充満すと。
負けた西軍は、退去に際して、西軍の陣地と京の各地に放火し、
京都は荒野の如くになったと記してある。

深草の地も、戦乱の巷となり、平安以来の豪壮な別荘、
大寺はことごとく焼失し、稲荷大社や藤森神社すら焼き払い、
歴史上の資料も灰燼と化し、わづかに礎石や瓦を出土するばかりとなった。
誠に残念至極。史学上では暗黒時代と言われている。

3 山 城 土 一 揆

土一揆とは百姓一揆である。南北朝内乱・応仁の大乱など打ち続く兵乱のため、
農民の疲弊と治安の不良から、各地で一揆が蜂起した。

就中、京畿が最も多く、正長の土一揆(1428)から明応の徳政一揆(1495)まで
約70年間に25回も起きている。

初めは地侍などが、不在地主的な荘園領主や幕府に権利を主張した「徳政一揆」であったが、
やがて農民の集団暴動の「土一揆」となり、掠奪、放火が行われた。
深草の農民も大いに活躍したとの記事がある。

主な山城土一揆を列記すると、

1428−京畿に一揆起り徳政を要求す。

1441−土一揆の要求により、幕府は徳政条目を定める。

1447−山城の国一揆、西岡向日神社に集合して徳政を要求し、七条に放火。

1454−土一揆、東寺金堂を破壊する。

1457−徳政一揆、京の各所に乱入する。

1462−京畿の土一揆の巨魁、蓮田兵衛を誅して、
首をさらしたので、土一揆、京の所々に放火する。

1465−土一揆、又も東寺に乱入する。

1467〜77−応仁の乱、洛中、洛外は激戦場となる。

1480−京都七関反対の一揆蜂起して略奪する。
又応仁の乱で兵火を免れた諸寺を焼く。

1485−山城国一揆、畠山義就、政長の対陣に抗議、両軍撤退する。

1488−京都に一揆起こり、下京を焼く。

1490−一揆、北野神社にたてこもり、放火する。

1495−京に明応徳政一揆起こる。

4 深 草 十 二 帝 陵

深草坊町、奈良線の傍に「深草十二帝陵」がある。
正式の名は「深草北陵」という。

陵域に一宇の法華堂があり、ここに12の天皇の毘陀御遺骨が合祀されている。
何れも持明院統(北朝)の、次の天皇である。

89後深草・92伏見・93後伏見・北4後光厳・北5後円融・北6
100後小松・101称光・103後土御門・104後柏原・105後奈良・106正親門・107後陽成
これらの天皇の世は、蒙古来襲、南北朝内乱、応仁の大乱、
群雄割拠時代であったので、皇室の衰微も甚だしく、
御陵造営の費もなく、管理も不十分であった。

江戸時代に入っても「御骨堂」が、御陵の形をとどめていたに過ぎなかった。
付近の瑞光寺にいた、文人であり孝子としても有名な
元政上人(1623〜67)の詩によっても荒廃の模様がしのばれる。

過安楽行院俗称御骨堂

満園秋軍絶衣冠 御骨堂荒白露薄

寂莫林庭委風雨 蒼苔深銷玉光寒

仁徳天皇などの前方後円の偉大な御陵に比較して、
天皇の共同墓地とは、あまりにも痛々しい限りである。
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