7 平 安 朝 時 代

1 荘 園 と 歌 人

50桓武天皇の平安遷都(794)の際、
深草の山々の西麓を、清浄の地と定め、
庶民の埋葬を禁止した。
やがて藤原氏が勃興し、56清和天皇の世から、
藤原摂政関白時代に入るが、深草の地は藤原一門の荘園となり、
広大な山荘別邸や大寺院が建立された。
また、仁明天皇を始め多くの貴族の埋葬地ともなった。 藤原一族の生活は、優雅贅沢を極めたが、
文学は大いに興隆し幾多の文人を出した。
これら王朝貴族は、ここ深草の地をこよなく愛で、
多くの和歌を読んでいる。

夕ざれば野辺の秋草身にしみてうずら鳴くなる深草の里

藤 原 俊 成

鶉鳴く夕の空を名残りにて野となりにけり深草の里

藤 原 定 家

深草の山の裾野のあさぢふに夕風さむく鶉啼くなり

寂 起 法 師

藤原俊成(1114〜1204)は、
千載集の撰者として有名、墓は本町二二丁目にある。
藤原定家(1161〜1241)は、
俊成の子、新古今集、百人一首の撰者としてあまりに有名、
謡曲「定家」にもなっている。

2 深 草 野 と 鶉 の 里

「名跡志」によると、深草山以西竹田村のあたりを「深草野」という。
「鶉の里」はこの処にある。今は墓なり。
飯食西裏と竹田の堺に在る墓。
俗称コクボ。深草練兵場の西南隅であると。
現在は「三心房墓地」という。
一説には、鶉は荒野に巣くう地鳥なれば、
この深草一帯に巣くうたので、
深草野をさして鶉の里と呼んだと。
「都名所図絵」によると鶉の床というのは、
深草野の草むらに巣を組むことをいうのであるが、
この所に「鶉床」と呼ぶ処が一ヶ所ある。
「竹の葉山」の辺りである。
昔より鶉の名所で、その声は他郷に勝るとて、
都下の詩客が仲秋の頃、
ここに来て美声を聞くと。

狩りにこし鶉の床の荒れはてて冬ふかくさの野辺ぞ淋しき

後 鳥 羽 院

深草や鶉の床のあと絶えて春の里とふ鴬の声

後 京 摂 政

深草や鶉の床の朝露の袂にうつる秋の夕暮

茲  鎮

粟の穂をこぼしてここら啼く鶉

惟  然 
「名所鶉の里」の標識は、
昭和二〇年頃まで現在の青少年科学センター正門辺りにあったが、
今は跡片もない。
復興したいものである

3 三 心 房 墓 地

西浦町八丁目の西南、バス停竹田出橋に在る墓地を「三心房墓地」という。
「コクボ墓地」とも言うとの書もあるが、
南方の小久保町にある「古久保墓地」と混同しているようでもある。
この付近は、旧鴨川のフチの小高い丘で、
古くから墓地、周囲は竹や雑木林が生いしげり、
狐狸のねぐらでもあったが、
今は名神高速の敷地となり、北側の現在地に移集、
周囲をブロック塀とし中央に合龍前堂がある。
古くから横死者の埋葬地として土地の人は誰一人知らぬ者はない。
平安の歌人に読まれた名所「鶉の床」はこの地とされている。

4 竹 の 葉 山

「名跡志」に、「竹の葉山」は道澄寺(直違橋六丁目)の南へ一丁、
西へ二丁余「鶉の床」の隣とある。
明治末期頃までは竹やぶが多かった。 一説には、深草山の近傍には竹林が多く、
故に深草の別名を「竹の葉山」というたと。
因に、深草山麓には「竹の下道」という道があるが、
旧大和街道である。

深草や竹の葉山の夕霧は人こそ見えね鶉なくなる

藤 原 家 隆

その色もわかぬあわれも深草や竹の葉山の秋の夕暮

無 品 親 王

5 北 大 路 通

北大路といっても京都の北大路ではない。
城南離宮の北大路である。
深草小学校100年記念「深草」によると、
深草付近の重要交通路として、
鳥羽殿(城南離宮)の北を東西に通ずる北大路のことが「兵範記」に出ている。
これによると、平安京から大和春日社に詣る道筋として、
「造り道」を南下し、北大路(竹田〜深草の名神高速道路に沿った道に当たる)を東進し、
旧鴨川を竹田中川原、フチの付近で渡河し、
飯食を通り、深草土取(仁明陵付近)を経て、
大亀谷(山科街道でなく、小栗栖道)から木幡の関所に出る道である。
この道の「三心房墓地」から飯食に至る間は雑木が繁茂、
淋しい通りで、途中には刑場があって、さらし首や、
鋸引の刑などもあったとか、狐狸にたぶらかされたとか、
古老は語りつづけている。

明治40年からは、北側一帯は練兵場、
南側は野砲第二二連隊の兵舎が並び、
北門前の午砲台から正午を告げる午砲がうたれた。
今は藤森中学校、青少年科学センターとなっている。
因に、文中に出る「造り道」というのは、
正確には「鳥羽造り道」といい、
朱雀大路の羅生門から鳥羽に通ずる大路で、
京都と西国を結ぶ重要道路、
平安遷都に際して造られた道であるので「造り道」という。
今は洛南中学校の西側にある。

6 在 原 業 平 の 宅

「深草村志」に、在原業平の邸宅は直違橋七丁目西裏ならんと。
現在の町通町から西浦町四丁目辺りにあたる。
また「名跡志」には、在原業平邸は「御所階土の陵」という字の田の南一丁許りの地に在りと。
西浦町内には、練兵場以前の町名に「陵町」があったが、
これと関係するか正確な考証はない。
「古今集」の贈答の歌に

としを経て往きこし里を出しなば深草野とやなりにけん

業 平 朝 臣

野とならば鶉となきて年をへんかりにたつやは君はござらん

読み人知らず

在原業平(824〜881)住居は、
大原野小塩の十輪寺とされている。
難波から海水を運び塩を焼いた塩竃の跡や在原業平塔があり、
また付近には業平の墓が、父阿保親王、母伊登内親王
(50代桓武帝皇女)と三基並んでいる。
十輪寺は新西国観音霊場第三番、
55文徳天皇の勅願により伯母伊登内親王菩提のため開墓、
爾来花山家の菩提寺である。
毎年5月28日の「業平忌」は、
珍しく三味線入りの声明法要が行われる。
プレイボーイにふさわしい。

杜若ありしはむかし業平忌

宰   秀

7 御 所 垣

「深草名所旧跡」の深草殿の章に、
深草の伏見街道と竹田街道との中間(練兵場中央辺り)に「御所垣」という記事がある。
「練兵場一本松」の所らしいが「名跡志」にみえる「御所階土の陵」と同一であろうか、
何れも不明。
今後の調査を待つ。

8 長 講 堂 橋

「深草名所旧跡」に、「御所垣」の東南一丁余に「長講寺橋」
(後に安道転橋という)があり、
深草殿と縁故する所多しとの記事がある。
西浦町五丁目の長根寺川の架橋らしいが、全く不明。
抑も、長講堂というのは、89後深草上皇の時、
延暦寺の僧徒が強訴して騒動となり、
六条殿「長講堂」を造営して上皇を移す。
又、崩御に際し長講堂領の処分を遺詔したとの記事もある。
89後深草、92伏見天皇の持明院統(後の北朝)は、
この長講堂を拠点として、90亀山、
91後宇多天皇の大覚寺統(後の南朝)に対抗した。
なお、深草殿については、
嘉元2年(1304)89後深草法皇崩御させ給ひ、
夜に入りて深草殿に出奉るとの記事がある。
深草殿の地跡、規模は不明なるも法皇が創建されし深草嘉祥院ならんという。
嘉祥院は深草十二帝陵の東にあり、
一般には「深草聖天」と呼ばれている。

9 道 澄 寺

西浦町付近の旧蹟の所在を示すとき、
この道澄寺を基準に使われている。
直違橋六丁目の西側にあり、往昔は盛大な寺であったが、
今は衰微甚しく、小地蔵堂があるに過ぎない。史実によると、
60醍醐天皇の延喜17年(917)
大納言藤原道明と参議橘澄明の二人が発願協力して建立したので、
二人の名をとって寺名としたと。
この寺の梵鐘は、創建当時の古鐘として有名であるが、
今は奈良県の栄山寺にある。
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