奈 良 朝 時 代

1 土 岐 氏 の 渡 来

深草の地には大和時代にすでに「土師氏」が来住して、
この地の粘土で土器を焼き献納したことが「日本書記」にみえる。
深草の地は古来良質の粘土を産し、
土器の他に土偶(土人形)、瓦、との粉などが造られていた。
粘土産地としては「けんか山」「砥粉山」などが有名である。

2 深 草 地 倉 と 条 理 制

推古女帝(聖徳太子摂政)の頃(607)国ごとに
「地倉」という朝廷経済の地方拠点が置かれた。
「深草地倉」は上宮家(聖徳太子一族)の所属であった。

山背大兄皇子(聖徳太子の皇子)とその一族が、
蘇我入鹿に攻め殺された事件の時、
近臣が深草地倉へ避難するように進言した記事が「日本書記」にみえる。
この事件は蘇我氏滅亡の興味ある歴史だ。

舒明天皇崩御の時(641)、
皇太子中大兄皇子(天智天皇)が幼少のため皇后が即位した皇極天皇である。
権力者蘇我入鹿は、叔母が生んだ舒明天皇の皇子、
古人大兄皇子を即位させようとしたが、
聖徳太子の皇子山背大兄皇子とその一族が反対するので、
入鹿はひそかに兵を出して攻め殺した(643)。
このことがあって中大兄皇子は藤原釜足とともに、
入鹿を殺し、父蝦夷は邸を焼いて自殺、
皇室をつぐ権勢家蘇我氏四代は滅亡したのである。

「条理制」は町名の項でものべたように、
大化改新(645)に、各地方に制定された租税の地割制である。
紀伊郡深草には「深草里」「飯食里」「松本里」などがあるが、
この「松本里」が西浦町一円に当る。

3 紀 伊 氏 と 藤 森 神 社

往昔、深草は、山背国紀伊郡深草郷といったが、
紀伊郷とは「紀氏」一族が勢力をもっていたので地名となった。 紀氏は神武天皇の世、
紀伊国(和歌山県)の国造(くにのみやつこ)の天道根命を祖とする武内宿弥は、
孝元天皇の皇子彦太忍信命の女影姫との間に生まれた人で、
神功皇后に仕え、朝鮮出征の伝説は有名、
その子紀伊宿弥も奈良朝政界で活躍した人である。
当時の紀伊氏は、同族の権勢者蘇我氏に仕え、
帰化人の秦氏を配下にして勢力を扶植していた。
藤森神社は、紀伊氏の祖神を祀る氏神である。
宮司藤森氏は千年も続いた旧家である。

4 泰 氏 と 稲 荷 神 社

蘇我氏が滅亡すると、紀伊氏の勢力も衰え、秦氏のみが栄えた。
「日本書記」によると、欽明天皇は、
深草郷の秦大津父を召して大義役人とした記事がある。
秦氏は、農業、養蚕、織物の技術にすぐれ、
土着民を開発したが、秦伊呂久は和銅4年(711)農業の守護神を祀る「稲荷神社」を創建した。
よって稲荷神社のシンボルは、
稲束をかつぐ老爺(農作)と巻物をくわえる狐(技能)の像である。
しかし現在は農業よりも商業の神として、
日本三大稲荷の筆頭、千本鳥居は有名である。

5 土 着 民 の 台 頭

弘仁8年(817)「山城国紀伊郡司解案」に、
深草郷長に木勝宇治万呂が任命された記事がある。
郷長は郡司と同じく土着の氏族の長が任命されるならわしから
秦氏にかわって土着民が台頭してきたことを示している。

6 昔 の 飯 食 町

飯食町(いしき)は西浦町南東に隣接する街であるが深草では最も古い集落である。
弥生時代の原始人が、現西浦町の湖辺に集落して稲作をしたが次第に飯食町に移動したようである。
飯食の地は長根寺川と七瀬川との間の丘陵地で、
居住環境がよい、飲料水がよく、水害がない、
水田にも遠くないためであろう。
飯食町は古くから藤森神社の神供米を受けもち、
飯食西裏と呼ぶ現西浦町で神供米をつくっていたようである。 飯食の語源は、イシキは飯食墓、神供米を司る所を示すといわれる。 原始人が山野の果穀で露命をつないだ時代には、神へのお供えも、
生の果穀であったが、農耕時代に入ると炊飯したものを供えるようになった。
例えば佛飯、お膳のようなものである。
また飯食の地名は古書のいたるところでみえる。
平安遷都ののち、大和春日社への詣り道も飯食を通っている。
豊臣秀吉の伏見城築城にともなって伏見街道も、
わざわざ飯食町を通っている。 飯食町が昔から重要拠点であることは、「西飯食遺跡」から、
平安朝時代の日常土器が多く出土したことによっても照明される。
(小 山 敏 夫 氏 報 告)
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