1 前  書  き

私達が住んでいる深草西浦町は、
太古は湖岸の草深い荒野の時代から、長い期間の農地時代、
陸軍練兵場の時代と人の住んでいない土地であった。
ところが僅々10年間に、
御覧の通りの市街地と化し、
昔の面影は全くなくなった。
「元練兵跡」という言葉も、
やがては知らぬようになるのではないでしょうか。
西浦町の歴史と言っても、
もともと無住の地であるから極めて少ない。
地元の深草の歴史を知ることによってうかがわれる程度である。
しかし古来、有名な「鶉の里」「鶉床」が、
この西浦町にあるのは珍しい。
西浦町の南西隅にある「三心房墓地」がそれである。

夕ざれば 野辺の秋風身にしみてうずら鳴くなる深草の里
藤 原  俊 成

一つとり二つとっては 焼いて喰い うずら無くなる深草の里
太 田 蜀 山 人

深草小学校の校歌にも「うずら鳴くちょう」は深草の平安朝の歌まくら…と、
昭和初期までは歌われていた。
地元の御老人にはなつかしいことでしょう。
不肖私は歴史など全くの素人です。
従って正確なことは書けないが、
会報「にしうら」のお求めにより、
私が三十年来住みつき、町内のお世話を不完全ながらさせて戴いているうちに、
見たり聞いたりした事柄や、
歴史書を引用して断片的に綴ってみました。
御参考になれば幸甚至極です。

2 西 浦 町 の 地 形

深草西浦町の位置は、
深草中央の西部に位し、
元練兵場跡の全域である。

東は師団街道を境にキトロ、野田、町通、綿森町に接し、
東方に京阪電車、疎水、直違橋商店街、深草小、中学校、
聖母学院、警官駐在所、などがある。


現在の深草西浦町付近の地図
西は国道24号線(竹田街道)を境に、
竹田中川原町、竹田久保町に接し、西方に高瀬川、加茂川が流れる。
南は名神高速道路を境に、飯食町、フチ町、竹田七瀬川町に接し、
藤森中学校、科学センター、清風幼稚園がある。
北は府道中山稲荷線を境に、塚本町、ヲカヤ町に接し、龍谷大学、警察学校、砂川小学校がある。

形状は、ほぼ矩形、東西が570米、南北が690米、面積43.2ヘクタール(約14万坪)である。

練兵場時代には、ほぼ四角形で一辺1キロ周囲4キロ(約1里)、
面積約50ヘクタールで行軍や駆け足などの目標とされていた。
  地勢は、もと練兵場建設のときに地均しをしたので平坦、
稍東高西低の傾斜があって排水良好であるが、
西の竹田街道にある暗渠が小さいために大雨には南西部一円は滞水し竹田街道にあふれる。
西浦町を流れていた川は何れも小川程度のもので、
南から長根寺川(頂欣寺川の名もある)、僧坊川、砂川(昔はケナサ川)がある。
長根寺川は上流に、中谷池、具ケ谷池があって直違橋三丁目で疎水の下をくぐり、
飯食町の北から三心房墓地で北に迂回し、竹田街道を暗渠でくぐり高瀬川に注ぐ。
この川は大雨のときには大荒れをする川であったようである。
流れは飯食町の小台地に突きあたって、そこをえぐって北西に流れ込んだ形跡がある。
えぐられた跡が水たまりとなり付近が小砂丘となっていた。

また深い砂層が北西に向かって何条もあることが発掘してわかる。
また、この小川は西浦町に入ってから流れが急に弱まり、
南西部を低湿地としていた。練兵場のときには盛土して少し改善されたが、
不充分で区画整理工事までは低湿地であった。

僧坊川は僧坊町で長根寺川が分流し、また田谷町辺の水が集まったもので、
聖母学院の中と北の流れが合流して直違橋六丁目で疎水の下をくぐり、第二軍道に沿って西下する。

今は師団街道の西溝(被覆して歩道)として北進し砂川と合流しているが、
練兵場時代には師団街道の東側溝として北進し砂川に合流した。
練兵場跡の農耕時代には、湧泉式暗渠で師団街道を横切り、
一直線に西下し水田潅水の後に、竹田街道で長根寺川と合流して高瀬川に入った。
その頃の有様が今は勤労者住宅の南溝で残っている。
ところが、区画整理工事では、師団街道の西側溝として北行し砂川に合流させた。
この溝川は珍しいことに、いまだに第2級河川であって中央の許可を必要とする。
砂川は七面山楚の橋の爪池(山池ともいう)を水源とし直違橋通り一本松に流れ、
疎水をくぐり、第一軍道に沿い、西浦町の北端を一直線に竹田久保町で高瀬川に注ぐ。
今は蓋をして歩道となっている。
昔は洪水ごとに砂が推積して砂原となり、松が繁っていた。

昭和の初期、日本で始めて飛行機が飛んだ頃は、
練兵場が臨時飛行場となり、観衆はこの砂川の松原に陣取って見物した。
アートスミスの宙返り、荻田飛行士の墜落惨事もあった。
この三つの小川は、農業用水の幹線水路で大昔は水争いの川であったが、
明治27年疎水開通、井堰からこの川に水を落とした。水は使い放題、
どんな旱天にも水不足はなくなった。西浦町を耕作する農家は万々歳であった。
井堰の数は西浦町方面用が最も多く、
今は全く使用されていないが、昔の姿で残っている。
管理者何某電話何番と書いた立て札も残っている。
疎水べり散策の時には一見下さい。

西浦町の土質は、表層は砂質土であるが深部は粘質土で、
岩盤は表層には全くない。しかし土質で特徴とするのは、
深い砂層が何条となく変えたことが窺われる。
ちなみに、練兵場時代の排水暗渠が縦横に埋没されている。
大きさは深さ巾とも1メートル底に竹を敷き、20センチ大の礫が填めてある。

3 西 浦 町 の 町 名

西浦町には太古には勿論、地名はなかったが、
初めて地名が歴史に見えるのは奈良朝時代である。

大化改新(645)の頃、条理制という納税の地割りが行われたが、
紀伊郡条理の深草の地は「深草里」「深草東外里」
「飯食里」「松本里」などに区分されているが、
「松本里」が現在の西浦町一円にあたる。
「松本」という古い地名や「松本町」という新しい地名は、
いずれも現龍大の南方に存在していたが、練兵場用地となって以来、なくなった。
平安朝時代に入っても固有の地名はなく「飯食西浦」と呼ばれ、
江戸時代にも「七丁目西浦」などと呼ばれた。

明治3年(1870)の古図に、初めて「西浦」の地名が、
現在の野田町の西に見える。西方に湖沼があった名残であろうか。
明治14年(1881)組制から深草村が独立して、
現在の西浦町の地は小森町、松本町、陵町、八反田町、西浦町、カラメ町となった。

明治40年(1904)第一六師団練兵場用地として、
前記六ヶ町の外に綿森町、町通町、野田町、キトロ町、堀田町、五反田町、
ヲカヤ町、竹田久保町、竹田中河原町の一部が買収されて、
「陸軍、京都練兵場官有地無番地」となった。

昭和24年(1949)京都府知事告示で「深草西浦町」となった。
このいきさつは次の通りである。

昭和20年終戦と共に、練兵場も軍用地として占領された。
しかしすぐに条件付きで返還された。
条件とは、農地として農家に払い下げること。
払い下げを受けた農家は七ヶ年以内に開拓することであった。
京都府は直ちに耕地区画工事を行い、
24年新町名と地番が決定すると同時に払い下げが行われた。

昭和45年(1970)、現在の「深草西浦町○丁目○番地」の町名になった。
西浦町は昭和20年以来20年間純然たる水田地帯であったが、
周囲の状況から市街化の必要がおこり、区画整理工事が行われて新町名がつけられた。

町名決定に先だって地元の意見を聞く会がもたれたが、
その席上で京都には西浦町が十余ヶ所もあるので、
この際、斬新な町名、例えば「鶉の里」などとしては如何との意見もあったが、
結局は十幾つ目かの「西浦町」に決定した。

京都人は形式に限っては保守性が強い。
丁目と番地は「右廻式」の新制度を採用し、
行政区分を一〜四丁目を砂川学区、五〜八丁目を深草学区とした。

4 西 浦 町 の 人 口

西浦町の居住者としては、2000年前の昔、
弥生中期に稲作農耕をする原始人の集落が西浦弥生遺跡として発見されている。
(五丁目の深草電話局の北西隅に石碑)
やがて移動し、その後は居住者はない。居住に適しない理由は、
低湿地による水災と飲料水が悪かったせいであろう。

史志によると、在原業平(824〜880藤原の荘園時代)の邸宅が西浦町か附近にあったらしい。
(名跡志深草村志)。
いづれにしても、大昔から長い間農地であり、また練兵場となって、
人の住んでいない所であった。

昭和20年終戦後、練兵場は農地として払下げられた。
この頃には上水道も近くまで普及していて居住に適する環境となっていた。

昭和23年、不肖秋山(市農場)がまず居住した。
その後行われた弥生遺跡発掘調査の時に調査事務所に私宅を提供したが、
その折、調査団長の大学教授が笑い話で「貴方は2000年目の人」と言われたのが印象に残っている。

次いで、24年には松田武雄、三郎氏兄弟(上賀茂ゴルフ場代換地)、
森田喜三、吉田善次郎両氏(山科)が来住した。

その後区画整理工事が始まるまで約20年間は、
この五戸だけで増加しなかった。
居住者が増加しなかった原因は、
昭和25年進駐軍通信部隊が兵器廠(現龍大)に駐屯し、
西浦町一円にアンテナ柱を林立させ、
太い地下ケーブルを埋設し、昼夜警備が巡視したせいで、
土地使用料は地主に支払われたが全くお先真っ暗で農業にも力が入らなかった。
地価もあって無きに等しく、或る人が永久管理の名目で1反歩1万円もの高値で取引したと聞いておどろいた。

坪当たり33円である。

現在坪当たり5〜60万円と比較すると馬鹿みたいである。

昭和37年、区画整理工事が着工され、
仮換地で自分の土地の所在と面積が定まった時点即ち40年頃から、
土地の売買が活発となり、住宅も建て始められた。
民家第一号は三丁目の大橋氏で珍しくブロック建築であったが水道工事に手間取り、
貰い水の不自由な生活が続いていた。

高層建築の第1号は昭和42に建った京都市西浦町勤労者分譲住宅であった。
これから急速に、民家も、アパート、マンション、商店も建築し、
また公共施設も西浦町に集合し、僅々、10カ年で現在の市街化となった。
もう旧練兵場も一面の水田も、
その面影を見ることはできない。

深草西浦町の戸口

5 西 浦 の 弥 生 遺 跡



西浦町五丁目深草電話局の西北隅に「深草弥生遺跡」の石碑と碑文がある。
それには次のように書いてある。

『此の付近深草弥生遺跡この付近は、
弥生式文化時代の重要な遺物が出土したところである。
戦前陸軍練兵場であったこの付近は、
戦後になって数度の学術調査が実施され、
弥生式中期時代(今から約2千年前)の人々の生活、
とくに農業の様子を示す遺物が多数に発見された。中でも注目されるのは、
木製品で、鍬、鋤の農具小型椀などの日用品が発見され、
いづれも高い技術で加工されている。
石斧などの石器、壷やカメなどの土器も、むろん多数発見され、
土器は形式的には滋賀県南部と共通の特徴をもっている。
また焼けた米も発見された。
この付近に住んだ弥生式時代の人々は、
高い技術をもって稲作農耕生活を営んでいたと確認される。
原始時代の生活を探るための重要遺跡である。 京 都 市 』

太古この地は京都盆地で、巨椋池につながる大湖沼の岸辺であった。
東につながる七面山、二石山、深草山などから流出した土砂が堆積し
東高西低の広い野原と湿地であったらしい。

原始人はこの湿地で稲や稗を耕作しながら前面の湖沼で漁業をし
背後の山で狩猟をして原始生活をしていたのである。
深草遺跡はこの頃の稲作農民の集落である。
規模は静岡県の登呂遺跡にも匹敵するほどであるが、
急速な都市化のため十分な調査も復原もできなかったと関係者は残念がっていた。

この集落は、その後、隣接した小高い飯食の地に移動したらしい。
理由は飲料水と水害であろう。

西浦町一帯は各所でボーリングしたが飲料に適するものは一ヶ所もなかった。
西浦町の水は滞留水のせいだろう。
この遺跡発見のいきさつは次の通りである。
  昭和25年に私が田圃で一個の石斧のようなものを拾ったので、
辻井喜一郎氏(伏見工高教諭・西浦町内での耕作者)に提供したが氏もその頃
ほぼ完全な土壺を発見していた。

その当時、この地は一面の水田で、
潅漑水路の断面に、土器の破片が多数露出していた。
辻井氏は歴史を教える社会科の先生であった関係で、
直ちに考古学グループの宇佐晋一氏(三聖病院長)、小川敏夫氏(深草四の橋服飾師)、
星野猷二氏などに連絡し調査が始まった。

やがて大学の学術発掘調査も数回行われ、多くの品々が出土した。
研究の結果、弥生中期の稲作集落の遺跡であることが確認されたのである。
出土品は、土器(つぼ、かめ、たかつき)石器(石厨刀、やじり、斧)、
木器(鍬、鋤、小椀)、そのほかに瓢箪容器、種子、昆虫(玉虫)などである。
特に「深草式」と命名される器底の発見は学術上の貴重資料とされている。
大学の発掘調査の時、たまたま私の家を調査事務所に提供した関係で、
詳しく見聞することができたが、中でも印象の深かったのは、玉虫の色彩であった。
堀り出した瞬間の色彩は実に見事で、色彩がこんなに長年保存されることにも驚いた。

また「おこげ」のついた壺の破片。この頃は壺で米をたいていたことにも驚いた。
また木製の農具や太い丸太橋(炭素量による年代測定のためアメリカに送るとか)
などを見たとき、そぞろ二千年前の我々の祖先が、苦しい労働や、
おおらかな生活をしていたことがしのばれた。

その後も西浦町に土木工事がある度に、調査班が現れて発掘している。
深草電話局建設のときは、長い間工事をストップさせて調査した。
現に只今、下水道工事が施工中であるが、一寸まったをかけて発掘している。
聞くところによると、その後の収穫は全くゼロだそうだが万一出るかも知れぬ。
この夢一つでマニヤは泥んこになる。

「弥生中期」とは、西日本各地にいくつもの小国家ができ、
やがて「耶馬台国」のような連合国ができた時代である。
なお、弥生時代より古い縄文時代の土器も西浦町、谷口町から出土しているが、
これはただ散布地程度のものである。
(深草の古墳)
古墳とは、大和に、大王国家と呼ばれる強大な国家がつくられる時代の貴族の墳墓である。
深草に現存する古墳は、あまり多くないが、
すでに姿を消したものや、古墳があったのではないかと思われるものも含めると、
古墳時代の全期にわたっている。

ケンカ山古墳から、古墳時代前期に属する「車輪石」という副葬品が出土した。
この車輪石は碧玉製でよく研磨してあり、貝をデザインした腕輪であるが、
実用品ではなく副葬品だそうだ。

(小川敏夫氏、京都博物館陳列)ケンカ山古墳は今は名神高速道路の下となり見ることはできない。

この外に、番神山古墳、浄蓮華院古墳、山伏塚古墳などがあるが、
まだ調査が進んでいない。
嘉祥寺跡から「あぶみ瓦」という貴重品が出土している。(木村捷三郎氏)
深草の郷土史は少ないが、昭和初期の「深草誌」(宗形全風)。
昭和47年深草小学校百周年記念「深草」(河合清、境幸政、小川敏夫執筆)などがある。
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